今日のひぐらしのなく頃に粋はどうかな?
祟り殺し編 #3 圭一の考察
家に帰った圭一は自室にこもり、沙都子のことを考える。
自分の家は大きくて部屋はいくつか余っている。
食費の問題は厳しいが、昼飯は仲間みんなでほんの少し多めに弁当を用意すればいい。
だが、朝夕の食事は母親が用意するから、まず説得が必要だ。
人間一人の月々の食費はいくらだろう?それを自分が負担すれば文句は言われない?
助けは求めるが、基本的には自分一人で助ける。
しかし、その前に両親の説得が大前提だ。
仮に同情が得られたしても、どうして前原家が負担を全面的に受けなければならないのか?という話になるだろう。
結局、自分一人の決意じゃ何も救えない。
そう考えていると、母親が夕ご飯の支度ができた、と圭一を呼びにきた。
両親と食事をとりながら、圭一は、両親に断る必要ないことに気付く。そう、隠れ住まえばいいのだ。
その案で考えを進めている圭一。
叔父が探しているから、沙都子は学校へは行かないほうがいい。
両親は圭一のプライバシーを認めているので、圭一の不在を突いて自室に入るようなことなしない。だから、沙都子は部屋にこもっててくれれば大丈夫。
部屋は2階にあるから、事前に階段の音で接近を察知でき、そのすきに押し入れに隠れるくらいはできるはず。
学校へ行けない沙都子の昼ごはんは、圭一の弁当を回して、圭一は、みんなのお弁当を分けてもらう。
問題は朝夕の食事だ。
朝はガマンしてもらい、夜は、圭一の食欲が増したことにして大盛にしてもらい、何とかその一部を沙都子に与えればいい。
試しに自室で食べたいと言って、皿を持って圭一が立ち上がると、両親は、食卓で食べるよう言った。
これでは親の目を盗んで食事を持ち出すのは無理だ。
食事を終わらせた圭一は、自室に戻って、沙都子の気持ちになって行動してみる。
まず隠れるための押し入れを開けるが、立て付けが悪くて、ガタガタと音がした。
これは工夫しだいで音を消せる。
次に、圭一はトイレに行きたくなる。
前原家のトイレは1階にしかない。
トイレを家人に気付かせずに使用するなんて絶対に無理だ。
考えれば考えるほど破綻し、自分の無力さが思い出させられる。
明日、みんなにこの考えを発表しようと思いながら、睡魔に襲われる圭一。
TIPS 事例31をゲット!
昭和56年12月1日鹿骨市役所福祉部資料(閲覧不可・複写不可)
事例31(11月20日)
北条沙都子
鹿骨市雛見沢在住
(1)相談の経路 匿名で鹿骨市興宮の生活相談所に電話相談あり。
(2)状況 女児が保護者である養父母との生活に問題をきたしているという訴え。
(3)家族構成 養父、養母、兄、本児
*昭和55年6月に本児の両親が事故により死亡し、父方の叔父(父の弟)宅に引き取られた。
(4)興宮生活相談所の対応 匿名の電話相談が入り、同日、学校に電話で、本児の状況を聞き取り。翌日、担当職員が本児宅を訪問し、聞き取り。養父母は相談所の指導を受けることに同意。市の生活指導部に連絡した。助言指導とし、以降定期的に地域の当該職員が訪問指導することとなった。
(走り書きのメモがホチキスで止められてる)
前任の和田氏より関連情報あり。52年度のエ2-3の44号を参照すること。
鹿骨市教育相談所の田中主査が詳しいので助言を求めること。
TIPS 家庭教育のあり方をゲット!
「家庭」とは、人間社会における最小単位である「個人」の次に小さい構成単位です。
そして、人間が単なる動物ではなく、道徳や思慮分別を備えたいわゆる「社会的動物」として存在していくために必要とされるのが、「教育」であるとされています。
社会における、集団生活に必要な行動様式は特別の場合を除き、生来の能力とされる「本能」だけでは決して学習できないのです。
よって人間は、第三者、さしあたってはもっとも「個人」との距離が近い「社会」的な構成単位、「家族」よりそれらを習得します。これが、「教育」です。
そして、文明社会においては、自らが受けた「教育」と同時に、自らがその分身である子供に対してどのような「教育」を与えたのかということも、多くの場合「個人」を評価する基準になります。
以上のことを受けて、与える側である「親」は家庭において、受ける側である「子供」に教育を行うときは、どのようなことを心がければいいのか。
それは古今東西永遠の課題ともされる非常に難しい問題ですが、基本的には「信賞必罰」の考え方が一般とされています。
ただし、注意しなければならないのは「褒める」ときではなく、「叱る」ときなのです。
叱りすぎると子供は委縮して思考を停止、あるいは自らの言動を否定されたと考えて、社会的行動を学習する前に本能的な自衛を志向し、それにより問題行動を誘発する危険性があります。
その一方で、叱り方が軽すぎる場合は、子供がその誤った行動の重要度を取り間違えてしまって学習、あるいは記憶しないまま、時間を置いて再び同じ行動をする可能性が高まるでしょう。
そのため、家庭教育において「叱る」ことは非常に難しく、また与える側の親にとっても過度のストレスを要する行為であります。
~洛京大学教育学部「家庭教育のあり方」序章より~
TIPS 羊飼いはどうして嘘をついたのか?をゲット!
日本ではイソップ寓話の名で有名な寓話集は、古代ギリシアの寓話作家アイソポス(英語表記でイソップ)によってつくられたものといわれています。
その中でも有名な話のひとつが、「嘘をつく少年(別名:狼と羊飼い)」でしょう。
単調な生活に退屈していた羊飼いの少年がある日、「狼が来た」といって大騒ぎする。それを聞いた大人たちは武器を手に駆け付け騒然とするが、実はそれは少年の嘘だった。
徒労に終わった大人たちはかんかんに怒るが、少年はその大人たちの本能が面白くて、退屈しのぎとばかりに日をおいて再三再四と大騒ぎするようになる。
最初のころはそのたびに駆け付けていた大人たちだったが、やがて少年の嘘に辟易して誰も駆け付けなくなった。
そしてある日、羊を飼っていた牧場に今度は本当に狼が訪れる。驚いた少年は大人たちに助けを求めるが、彼らはまた嘘だと思ってそれを信じず、結局羊たちは食べられてしまった。
この話の教訓として一般に知られているのは、「嘘をつくと信頼を失う」ということでしょう。
が、この寓話が作られた当時の古代ギリシア・小アジアの国際情勢を考えた場合、別の考え方もあるのでは、と最近になって異説が持ち上がってきました。
たとえば、「狼が来た」と少年が言った話の10回のうち、9回で嘘であったとしましょう。
その場合、村の大人たちは10%の可能性だからといって、狼の襲来に備えないとするのは果たして正しい行動でしょうか。
逆説的にとらえると、1回は必ず狼の襲来があるのです。
100回のうち99回が嘘でも、本当の1回が最後に来るか、最初に来るかで体感的な確率、そして重要度は大きく異なります。そして、残念なことに多くの場合、それを知るのは結果が出たあとなのです。
たとえ当初見積もられた確率は低くとも、常に最悪尾状況に備えておかなければ体感的な確率と損失は大きく変動する。つまりこの寓話に隠された教訓は、「備えあれば憂いなし」であったかもしれません。
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