今日の十角館の殺人はどうかな?
江南はまだ帰ってきていないらしい。
午後10時10分、アパートの入り口近くに乗って来たバイクを止めて置いて、守須恭一
は道路を挟んだ向かいのコーヒーショップに入って、道に面した窓際の席に座った。
注文したコーヒーをブラックのまま啜りながら、この1杯で戻ってこなければ帰ろう、と思った。
そもそも江南の好奇心に火を点けたのは、あの死者からの手紙だった。時期を同じくして研究会の連中があの島へ行っていると分かれば、もうじっとしていられなって当然だ。わざわざ別府まで中村紅次郎を訪ねて行ったり、自分に相談を持ち掛けてきたり。けれども普通なら、その辺で熱の冷めてしまうのが江南という男の性格なのだ。ところが・・・
島田潔の顔が頭に浮かぶ。
単なる物好きではない。かなりの切れ者だと思う。だが、存外に無神経は詮索好きで、みずからそれを良しとしているふうな彼の言動には、どうしても反感を覚えざるをえなかった。
吉川誠一の妻を訪ねてみてはどうか、と自分が言い出したことについては、今更ながら後悔するしかなかった。あの時はどうかしていたのだ。ついあんな提案をしてしまった。いきなり見も知らぬ人間の来訪を受け、殺人犯の汚名を着せられた行方不明の夫に関したあれこれ尋ねられた吉川政子の心中は、いったいどんなものだったろうか。
二人の報告を聞いて守須自身が提示した中村青司生存説だったが、現実問題としては青司が生きてることなどあるはずない。あれはあくまでも、ミステリフリークの探偵ゲームに終止符を打つための、一つの仮説にすぎなかったのである。
ところが島田は、角島事件の動機として和枝夫人と紅次郎との関係に注目しはじめ、とうとう千織は紅次郎の娘ではないかと言い出した。しかもそのことを、当の紅次郎について聞いて確かめてみようなどと・・・
30分ほど経って、そろそろ出ようかと思い始めた時、江南のアパートの前に車が止まった。赤いファミリアである。降りてきた人影を見て、守須は席を立った。
「江南」
店から出て声をかけると、江南は「よう」と手を振って、
「どこかで見たバイクだと思ったんだ」
路肩に止めてある、ところどころ泥で汚れたバイク-ヤマハXT250-を見やった。
「わざわざ訪ねてきたのか」
「いや、通りがかりだよ」と、守須は腕にぶらさげたナップザックを開いてみせ、それからバイクのリアキャリアにくくりつけてあるキャンパスホルダーを顎で示した。
「今日も国東に行ってきたんだ。その帰りさ。現地行くまでは明日で終わりかな。完成したら、見に来ておくれ」
「やあ、守須君」
運転席から降りてきた島田が、守須の姿を見て屈託なく笑いかけてきた。守須は思わず声を硬くして、
「こんばんは、今日はどちらへ」
「ああ、ちょっと紅・・・いや、別府のほうへドライブにね」
江南に招かれて、島田と守須は部屋に入った。敷きっぱなしの布団をぱたぱたと片付けると、江南は折り畳み式の小テーブルを出し、酒の用意を始めた。
島田は部屋に上がるなり書棚の前に立ち、ぎっしりと並んだ本の青表紙を眺めていた。グラスに氷を入れる江南の手元を見つめながら、守須は聞いた。
「例の件は?どうなってるんだい?」
江南はいやに浮かない声で答えた。
「昨日はS町まで行ったきたんだ。海辺から角島から見て、あとは怪しげな幽霊譚をいくつか聞き込んできたんだけどな」
「幽霊?」
「島に青司の幽霊が出るとかでないとかね、ありふれた噂話さ」
「ふうん、それで今日は?ドライブしてきただけじゃないんだろう。
結局やっぱり、紅次郎氏のところへ?」
「そうだよ、忠告を聞かなくて悪かった」
水割りを作る手を止めて、江南は少し項垂れた。守須は短くため息をつくと、江南は顔を斜めから覗き込むように身を傾けて、
「で、結果は?」
「去年の事件についてはほぼ分かったんだ。紅次郎さんが話してくれた」
「事件の真相がわかったって言うのか」
守須が驚いて聞きなおすと、江南は「ああ」と頷いてグラスの水割りを呷った。
「結局のところはね、あの事件は青司が図った無理心中だったんだ」
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