十角館の殺人の読書開始!
夜の防波堤で一人の男が思いつめている。
「計画はすでに出来上がっている。そのための準備もほぼ整えてある。あとはただ、彼らが罠に捕らえられるのを待つだけだ。
何も知らずに、彼らはやって来る。何の疑いも恐れも抱かずに、自分たちを捕らえ裁く、その十角形の罠の中へ・・・彼らを待ち受けるものはもちろん、死だ。それが、彼らのすべてに対して例外なく科されるべき当然の罰なのだ」
そして、彼は、実行を予定している計画の内容が記された宛先なしの告白の手紙をガラス瓶に入れ、しっかり栓をしてから海に放り投げた。
ひょろりと背の高い、色白の好青年のエラリイが演説を始める。
「僕にとってのミステリはあくまでも知的な遊びの一つなんだ。小説という形式を使った読者対名探偵の、あるいは読者対作者の、刺激的な論理のゲーム。それ以上でも以下でもない。
だから、一時期日本でもてはやされた社会派式のリアリズム云々は、もうまっぴらなわけさ。1DKのマンションでOLが殺されて、靴底をすりへらした刑事が苦心の末、愛人だった上司を捕まえる、やめてほしいね。ミステリにふさわしいのは、時代遅れといわれようが何だろうがやっぱりね、名探偵、大邸宅、怪しげな住人たち、血みどろの惨劇、不可能犯罪、破天荒なトリック、絵空事で大いにけっこう。要はその世界の中で楽しめればいいのさ。ただし、あくまで知的に、ね」
しゃくれ顎のカーが反論する。
「どうも鼻につくな。俺は好きじゃないね、エラリイ。おたくのその、知的知的ってセリフは。選民思想だな。読者の皆様全部が、おたくと同じように知的にできていらっしゃるわけじゃない」
「つねづね嘆かわしいことだと思っているよ。うちの研究会でさえ、必ずしもみんなが知的だとは限らないもの。中にはやまいだれ付きのい奴もいる」
「喧嘩を売る気か!」
「僕も君がそうだとはいってない。それに僕の言う知的とは、遊びに対する態度の問題なんでね。いいたいのは、遊びを知的に行う、その精神的はゆとりが持てるかどうかってこと」
カーがそっぽを向いたので、エラリーは今度は、童顔に丸眼鏡の小男のルルウに話しかける。
一行がいるのは海原を走る漁船の上。
大分県の東岸に突き出したS半島J崎の袂にあるS町のひなびた港を出発した船は、約5キロの先の海上に浮かぶ小さな島を目指していた。
漁師が、大柄で顔下半分を覆った濃い髭のポウに話し掛ける。
「あんたら、本当に変わった学生なんだな。さっきから聞いていると、ヘンテコな名前ばっかりだろ」
「まあその、あれはあだ名みたいなもので」
漁船には漁師父子と、6名の乗客が乗っていた。
乗客は、大分県O市にあるK大学の学生で、ミステリ研究会のメンバーで、仲間内でニックネームで呼び合っていた。
そのニックネームはミステリ作家の名前に由来し、4人の男子学生が、エラリイ、カー、ルルウ、ポウ、2人の女子学生が、アガサ、オルティと呼ばれていた。
漁師が野太い声を張り上げた。
「ほら、ご覧なさい。角島の屋敷が見えてきたでしょうが」
小さな平たい島で、垂直に近い絶壁が海から生え、その上をもっこりと黒っぽい緑が覆っている。
四方を断崖絶壁に囲まれたこの島には、小型の漁船がやっと横付けできるだけの狭い入江が一つあるだけで、今から20年余り前、青屋敷なる風変わりな建物を建てて、移り住んだ人物がいたのだが、現在はまったくの無人島になっているという。
「あの崖の上にちらっと見えてるのがそうね」
ソフトソバージュの長い髪のアガサが、声を上げた。
「あれば焼け残った離れでさぁ。母屋のほうは、きれいに焼け落ちちまったって話ですがね」
「あれが十角館」
「あんたらもせいせい気ぃつけなよ。島にゃあ、出るそうですぜ。幽霊だよ。ほれ、殺された中村某とかって男の。こいつは聞いた話だがね、雨の日なんぞに島のそばを通ると、あそこの崖の上にぼーっと白い人影が見えるとさ。ほかにも誰もおらんはずの離れに明かりが点いてたとか、焼け跡の辺りで人魂を見たとかな、島のほうへ釣りにいったボードが幽霊に沈められたとか」
6人のうち怯えている様子なのはオルティだけで、アガサは嬉しそうにつぶやいた。
「幽霊くらい出てもいいわよね。何しろあんな事件のあった場所だもの」
現在時刻は、1986年3月26日水曜日午前11過ぎ。
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