チラシの裏~弐位のゲーム日記
社会人ゲーマーの弐位のゲームと仕事とブログペットのことをつづった日記

 今日の十角館の殺人はどうかな?


 いつかと同じ防波堤に腰かけ、彼は独り暮れなずむ海を見つめていた。
 (・・・千織)
 彼女の幻影が浮かび上がる。声をかけてみる。けれども彼女は、じっと目を伏せたまま何も答えようとしない。
 突然、誰かに肩を叩かれた。
 「やあ、久しぶりだね」
 人懐っこい笑みをたたえて、痩せた背の高い男が立っていた。
 「あの事件から、もうだいぶ経つね。警察じゃあすでに捜査を打ち切ったようだけれども、君はどう思う」
 「どうって、あれはエラリイが」
 「いやいや、そうじゃかなくって、もっと他の真相がありうると思うかって話さ」
 (この人はいったい、何を言おうとしている)
 お琴は「今日の1本」に火を点けながら。佇む彼の顔を見上げた。
 「紅さんが犯人なんじゃないかって、いつか僕は言ったが、実はあれからまた、暇に任せていろいろと想像の網を広げてみてね、一つ面白いことを思いついたんだ」
 (まさか、この人は気づいたんだろうか)
 「もうやめましょうよ」
 抑揚の失せた声で、彼は言った。
 「もう終わったことなんですから、島田さん」
 そうして彼は身を翻して、呼び止める男を無視するようにして、子供たちが遊ぶ水辺へと降り立った。
 濡れた砂が重く足に絡む。その足元で、何かがきらりと光った。
 (これは?)
 それは薄緑色の小さなガラス瓶であった。波打ち際で半分がた砂で生まれたその瓶の中には、折りたたまれた何枚かの紙片が見えた。
 (ああ、審判、か)
 子供たちがそろそろと家路につこうとしている。彼は拾った瓶を握り締め、彼らのほうにゆっくりと歩み寄った。
 「坊や、あそこにいるおじさんに、これを渡してきてくれないかい」

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 今日の十角館の殺人はどうかな?


 エラリイ=松浦純也が、何らかの知られざる動機によって、あるいは異常な精神状態のもとで、5人の仲間を殺した挙句に焼身自殺を図った。警察の見解はどうやらそこに落ち着きそうである。
 本土での行動を証明する例の絵のうち、不必要な2枚はすでに処分してある。もう何も、やりのこしていることはない。もう何も、恐れることはない。
 これですべて終わったのだ、と守須は思った。
 これですべて、復讐は終わった。終わったのだ。

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 今日の十角館の殺人はどうかな?


 ポウが死んでしまってもなお、エラリイは青司が犯人だと信じ切っていた。
 (愚かなエラリイ)
 ただ、彼が最後に、例の十一角形のカップから十角館の11番目の部屋の存在を導き出した。
 二人して地下室に降りた。そこで行方不明になっていた吉川誠一の死体を発見した。
 吉川はやはり、半年前に殺されていたのだ。
 死体の前で悄然と佇むエラリイに、その考えを話した。すると彼は。こう言った。
 「ということは、去年の事件ではもう1体、どこから身代わりの死体が調達してあったわけだな」
 さらに彼は言った。
 「この通路がどこに出るのか、調べておく必要がある」
 やがて通路は、1枚のドアに行き当たった。
 エラリイがそのドアを開けた。
 そこは入江に面した崖の中腹だった。
 「やはり青司は、ここを通って来たんだよ」


 「青司はきっと、今夜もやってくる」
 ホールに戻るとエラリイは言った。
 神妙に相槌を打ちながら、二人分のコーヒーを淹れた。前日ポウから睡眠薬を貰った時、こっそりと余分に瓶から取り出して持っておいた数錠を、エラリイに気づかれないよう一方のコーヒーに溶かした。
 何食わぬ顔でエラリイにカップを差し出した。彼は微塵も疑いを抱くことなく、すぐにそれを飲み干してしまった。
 まもなくエラリイは、テーブルに顔を伏せて無邪気な寝息を立て始めた。完全に眠り込んでしまったことを確認すると、彼を部屋に運び、ベッドに寝かせた。
 エラリイには焼身自殺を遂げてもらうことにした。いずれ、死体から睡眠薬が検出されるかもしれないが、よく似た状況で発見された昨年の青司の焼死体が、吉川誠一の他殺死体の発見によって自殺と判定し直される、その可能性に期待した。
 入江に降りて、先にボートの準備を整えておき、焼け跡の地下室から灯油を運んできた。埋めて落いたオルツィの左手を掘り返し、指輪を抜き取る。手はそのあと、彼女の死体に返してやった。
 余ったプレートや血の付いた衣服、毒薬、ナイフなど、残ってはまずいものはすべてエラリイの部屋に運び入れた。ハドを開けておいてから、その部屋中に灯油をまく。他の部屋にも適当に油を撒いたあと、プロパンのボンベを外してホールに持ち込み、外へ出た。窓の下に回り込むと、最後に残った油をエラリイの身体にぶちまけ、ついでにポリタンクも投げ込む。
 エラリイはそこで、ぴくりと目覚める気配を見せた。が、その時はすでに、火の点いたオイルライターが、ずっしりと油の染みたベッドめがけて放り込まれていた。


 翌朝、事件の発生を知らせる伯父からの電話で、目が覚めた。江南に連絡を入れ、自分はすぐにS町に向かった。
 まず伯父の家に立ち寄り、島の様子を見にJ崎まで行ってくると告げて車を借り出した。告げた通りJ崎へ急ぎ、隠しておいたボートはボンベをトランクに積み込む。あの時点でJ崎のほうに注意を向ける者など、誰もいるはずがなかった。
 車を伯父の家に帰したついでに、ボートを元通りガレージの奥の物置にしまっておいた。こしてすべての後始末を済ませた上で、江南たちと落ち合うべく港に向かったのだった。

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 今日の十角館の殺人はどうかな?


 夜のうちに少し雨が降りはしたが、支障を来すほどのものでもなく、5日目の3月30日の朝、空が白みかける頃、無事に島へは帰り着くことができた。
 ロープを岩に繋ぎ、ボートを片付けにかかろうとした、その時だった。
 短い叫び声が聞こえたような気もした。気配を感じて目を上げると、階段の中ほどに立って愕然とこちらを見下ろしているルルウの姿があった。
 臆病者のルルウが、どうしてこんな時間に一人で岩場にやって来たのか、ゆっくりと考えている余裕などなかった。あるいは、岩に結び付けて置いた紐を何かの折に目に留めていて、それに不審を抱き、調べに来たのか知れなかったが、兎にも角にも見られてしまったという事実には変わりはない。
 手近の石ころを拾い取って、逃げ出したルルウのあとを全力で追った。
 十角館の方に向かって、ルルウは大声で助けを呼んだ。とっさに相手の後頭部めがけて石を投げつけた。鈍い音を立ててそれを命中し、ルルウは前のめりに倒れた。転がった石を再び拾い上げ、ざっくりと割れた彼の頭にもう一度、さらにもう一度・・・
 ルルウの絶命を確かめると、大急ぎで岩場に戻った。その途中、地面の足跡には気づいたのだけれども、冷静に対処するには気の焦りが大きすぎた。ルルウの悲鳴を聞いて、今すぐにでも誰かが駆けつけてくる恐れがあるのだ。
 足跡にまずい特徴がないかどうか、ざっと見渡してみた。相手は警察じゃない。こおくらいの足跡なら大丈夫だ。そう判断し、そしてそれっきり、足跡の問題は念頭から消えてしまった。
 とにかくまず、岩場を離れて入江のほうへ回った。桟橋の下、水面との間にかなり広い空間があったので、さしあたりボートはそこに押し込んでおいて、しばらく上の様子を窺った。誰も起き出してはこない。幸運だった。
 入江に引き返すと、ボートを畳み、桟橋の袂にあるボート小屋に隠しておいた。
 十角館に忍び入ると、『第三の被害者』のプレートをルルウの部屋のドアに貼り付ける。そうしてやっとシェラフに潜り込むことができた。
 やがて時計のアラームで目を覚まし、水を飲みに部屋を出て、そこであのアガサの死体を発見した。あの朝になって、彼女は口紅の色を変えたのである。
 殺人などもうたくさんだ。精神も肉体も、もはや限界に近づきあると感じた。
 だがしかし、ここで放棄するわけにはいかない。決して逃げ出すわけにはいかないのだ。


 ルルウの殺害減はで、エラリイが例の足跡に興味を示した時は、それこそ心臓が止まる思いだった。
 もとより、被害者の数が増え、容疑者が絞られていくにつれて、動きが取りにくくなるであろうことは覚悟していた。最悪の場合には、一対複数もありうる。そう考えて、上着のポケットには常に小型のナイフが忍ばせてあった。
 エラリイが知跡の検討を進める間、何度そのナイフで二人に切りかかろうと思ったことか。だが、下手に動いて取り押さえられてしまったら、本当に一巻の終わりだ。その時点ではまだ、自分が犯人だと指摘されるかどうか、一考の余地も残っていた。
 エラリイは結論を、およそ見当はずれな方向へ短絡させてしまったのである。犯人は3人のうちの誰でもない、島の外から船でやってきた何者かなのだ、と。
 青司の影がここに来て、ここまで決定的に自分を守ってくれることになろうとは思ってもみなかった。
 エラリイが煙草を切らし、ポウが煙草入れを回した。絶好のチャンスだ、と判断した。
 上着のポケットから、素早くあるものを取り出した。それは小さな細長い箱で、中には青酸カリを仕込んだラークが1本入っていた。機会があれがポウに対して使うつもりで、初めから用意しておいた凶器だった。
 自分も1本欲しいと言って、煙草入れを回してもらう。この時、テーブルの下ですり替えを行った。煙草入れから2本抜き出して、そのうちの1本を咥え、もう1本はポケットにしまってしまう。こうして毒入りの1本を代わりに入れておいたのである。
 ポウが毒入りを取らないまま、再びエラリイに回されるかもしれないが、二人のどちらかが死ねはそれでよかった。最後の一人になってしまえば、あとはどうにでもなる。
 そして、毒入りはポウが吸った。

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 今日の十角館の殺人はどうかな?


 最初の被害者にオルツィを選んだのには、いくつかの理由がある。
 オルルィは、千織と仲が良かった。おそらく彼女は千織の殺害にも積極的な加担はしていないだろう。しかし、だからと言って彼女だけを復讐の対象から外すわけにはいあかなかった。
 もう一つの大きな理由、それはオルツィの左手中指に見つけた、あの金の指輪だった。
 それまで、オルツィが指輪を嵌めている姿など一度も見たころがなかった。だからこそ気づいたのだ。これはかつて自分が誕生日のプレゼントとして千織に贈ったあの指輪かもしれない、と。
 あの指輪の裏側には、自分と千織のイニシャルが刻まれていた。『KM&CN』と。
 ホールに忍び出ると、まっすぐオルツィの部屋に向かった。6人には当然ながら隠していたが、十角館のドアのマスターキーを伯父から預かって持っていた。それを使って部屋に入る。彼女の眠りを覚まさぬように気をつけながら、素早く紐を首に回し、渾身の力を込めて引いた。
 死体の指から、指輪を抜き取ろうとしたが、オルツィの指はひどくむくんでいて、どうしても指輪が外れなかったのだ。
 強引な手段を講じようと決心した。手首ごと切り取ってしまうのだ。
 左手を切り取るという高は、うまい具合に昨年の青屋敷の事件の見立てとなるものでもあった。すなわち、あとで島田潔が言っていた青司の影を、島の連中にほのめかすという効果である。
 凶器の一つとして用意してあったナイフを使って、苦心の末、死体の手首を切断した。切り取った左手はさしあたり、建物裏手の地中に埋めて置いた。すべてが終わったあと、掘り出して指輪を抜き取るつもりだった。
 外から侵入者の可能性を残すため、窓の掛け金を外し、ドアの鍵を外したままにしておいた。そして、厨房の引き出しから『第一の被害者』のプレートを抜きだしてきて、接着剤でドアに貼り付けた。


 アガサの口紅に青酸を塗っておいたのは、その前日の27日の午後のことだった。すでに例のプレートが出現してはいたものの、彼らの警戒心はまだ薄く、部屋に忍び込むチャンスをものにできたのだ。
 ところが、急いで行ったことでもあり、目についた1本しか毒を仕込めなかったため、この時限装置の作動は思いがけぬほど遅れてしまう結果となった。
 次に用いたのが、例の十一角のカップだった。
 あの奇妙なカップの存在は、連中が島にやってきたその夜に発見した。自分にまわってきたカップが、たまたまそれだったのだ。これは利用できる、と思った。
 2日目の朝、プレートを並べたついてに、こっそりとあのカップを部屋に持ち帰った。食器棚には余分のカップがいくつかあったので、その中の1個を代わりに出しておいた。
 使用した毒薬は、理学部の実験室から盗み出したものだ。シアン化カリウムと亜ヒ酸。カップに塗り付けるのは、無臭の亜ヒ酸にした。そして3日目の夕食前、動揺の続いている彼らの隙を狙って、この毒のカップを、厨房のカウンターに置かれていたカップのうちの一つとすり替えておいたのだった。
 1/6の確率でもしも自分の手に十一角家のカップが回って来た場合には、黙って口を付けなければそれで済んだ。しかしそんな必要もなく、カーが『第二の被害者』となってくれた。
 夜明け前になって、ようやく場は解散となった。皆が寝静まった頃を待ってカーの部屋に忍び込み、死体の左手首を切断して浴室に放り込んだ。見立てに一貫性を持たせ、オルツィの左手を切り取った理由を少しでもカムフラージュするためだ。そのあと、用意しておいたもう一組のプレートから『第二の被害者』を選び、部屋のドアに貼り付けた。
 続いて、今度は青屋敷の焼け跡に向かった。
 カーが倒れる直前、エラリイが口にした言葉を聞き留めていた。青屋敷に地下室はなかったか、というあの言葉を。
 地下室が残っていることは、伯父から聞いて知っていた。そこには、他の荷物と一緒に漁船で運び込んだ灯油入りのポリタンクが、がらくたに混ぜて隠してあった。
 どうやらエラリイは、何者かがこの地下室に潜んでいるという可能性でも考えているらしい。いずれ調べにいくことは見えていた。
 松葉で床を掃き清め、誰かがいたような痕跡を作る。さらに、ポウの釣り道具から失敬したテグスを、階段に張り渡しておいた。案の定、翌日この仕掛けに引っ掛かったのはエラリイその人だった。
 彼は足をくじいただけで大事には至らなかったが、若干の期待こそあれ、もとよりその程度の小細工で容易に死体を稼げるとも思ってもいなかった。
 ポウが各人の部屋を知らべようと言い出した時には、少しばかり焦った。
 むろん、そういう事態も考慮に入れてあった。プレートや接着剤、ナイフなどの品は外の草むらの中に隠してあったし、手首切断の際に血液が付着してしまった衣類は土に埋めてあった。灯油のポリタンクは地下室、毒薬は身に着けている。まさか身体検査までは行うまい。部屋に置いてあったのはウェットスーツ1着くらいなもので、それだけならば、たとえ見られたとしても何なりとごまかせる。
 しかしながら、部屋の状態を知られるのは決してありがたいことではなかった。準備係を引き受けた責任上、自分が悪い部屋を選んだのだ、と言い逃れれば良かったが、できれば知らぬに越したことはない。だからこそ、あの時は自らポウの提案に異を唱えたのである。
 その夜、アガサのヒステリーが契機となって、思いがけず、全員が早く部屋へ引き上げる成り行きとなった。本来、この夜に島を抜け出す予定はなかったのだけれども、まるまる一晩空いた時間を無為に過ごす手はないと考えた。O市に戻って江南に連絡を取れば、駄目押しのアリバイ工作になるからだ。
 体調は悪くなかった。決心を固めるとすぐに、前2回と同様の手順でO市に向かい、いったん自分の部屋に戻った。そうして、国東からの帰りであると見せかけるため、キャンパスホルダーをバイクに積んだ上で、江南の下宿を訪れたのだった。

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 今日の十角館の殺人はどうかな?


 翌3月26日、6人は島へやって来た。
 彼らは何も気づいてはいなかった。
 この日の夜、風邪でぐあいが悪いという理由で、皆よりも一足早く部屋に引きこもった。水断ちをしていたのはこのためだ。
 軽い脱水症状が、風邪によく似た症状を引き起こすということを知っていた。下手に仮病を使うわけにはいかなかった。医学部生のポウの目が、やはり気になったからだ。逆に、彼に診てもらって不調の確認を得られれば、誰からも怪しまれずに済む。
 ホールで続く歓談を背に、ウェットスーツに着替え、必要品の入ったナップザックを持って、窓から外に忍び出た。岩場に降りてボートを組み立て、夜の海をJ崎へ。そこからバイクでO市へ駆ける。
 そうして自分の部屋に帰り着いたのが、11時ごろだっただろうか。さすがに体は疲れ切っていたが、肝心なのはそれからだった。
 すぐに江南の部屋に電話をかけた。自分が確かにO市にいたという証人として、彼を利用するためである。
 その時の電話は通じなかった。しかし、期待通りに彼が動いていれば、いずれ連絡が来るはずだ。あるいはすでに何度か、向こうから電話してきているのかもしれない。ならばきっと、どこへ行っていたのかを問われるだろうが、その時のための口実はちゃんと用意してあった。
 6人が島へ行っている間の、本土における自分の行動を証明するものとして、事前に用意しておいた、それが、あの摩崖仏の絵だった。いや、正確にはあれらの絵、と複数形で呼ぶべきであろう。絵は全部で3枚あったからだ。
 木炭デッサンの上に薄く彩色した段階のもの。ナイフで全体に色を重ねた段階のもの。そして完成段階のもの。
 昨年の秋、傷心に身を任せ、当てもなく訪れた国東半島の山中で出会った風景だった。その時の記憶を頼り、季節を早春に置き換えて、製作途中の各段階を示すそれらの絵をあらかじめ描いておいたのである。
 12時が近づいた時、ようやく電話が鳴った。
 案の定、江南は餌に喰いついてきた。その日のうちに、鉄輪の中村紅次郎宅まで行ってきたという。しかし、そこで彼が知り合った島田潔という男の登場には、若干の当惑を覚えずにはいられなかった。
 証人が複数であるに越したことはない。だが、度を過ぎた介入は困る。適当な探偵ゲームに自分を誘い込んでくれるだけで良かったのだ。
 幸いなことに二人の関心は、現在でなく過去に向かいつつあった。少なくとも6人を追いかけて島まで渡ろうと言い出す心配はなさそうだ。国東まで絵を描きに行っていることを示した上で、翌日の夜また連絡をくれるようにと約束した。その思い付きで、安心院の吉川政子を訪れてみてはどうか、と示唆したのは、二人の注意をなるべく現在の角島からそらすためでもあった。
 二人が帰ると、少しだけ仮眠を取った。そのあと、夜明け前に再びバイクでJ崎に行き、海岸に繋いでおいたボートで角島へと急いだ。
 十角館に戻ると、ホールに誰もいないことを確かめ、例のプレートをテーブルに並べた。
 (あのプレートは、いったい何だったんだろう)
 あらかじめ刑の宣告をしておかねばアンフェアだという、妙な義務感に囚われたのか。
 おそらく、自分の屈折した心理の所産があれだったのだ、と思う。


 2日目の夜は、1日目よりもさらに早い時間に部屋に引き揚げることができた。ホールを去る際にカーと一悶着あったが、それも何とか切り抜けられた。
 3日目以降はもう、本土に戻る予定はない。水分を補給して、少しでも早く体調を回復させる必要があった。
 角島からO市までの道程は、前夜以上に辛く厳しいものだた。
 部屋に辿り着くと、とにかく水分の補給に努めた、江南と島田がやって来て、角島事件に関す津議論が始まってからも、やたらと何杯も紅茶を飲んでいた。
 翌日からはO市には帰ってこない予定だったので、一通り自分の役どころを演じ終えたあとは、できるだけ二人に話に否定的な態度を取らねばならなかった。自分はもうこの件から降りる、と宣言し、翌日以降、彼らが連絡してくることのないよう釘を刺す。
 前日と同様、夜明け前には島へ戻った。

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 今日の十角館の殺人はどうかな?


 そもそも、千織の父親が中村青司であるということを、彼女自身の口から聞いて以前から知っていたのだ。千織を失い、半年以上が過ぎてもいっこうに治まらぬ悲しみと怒りの中で、半病人のように日々を送っていた昨年の秋、角島に住む彼女の両親が悲惨な死を遂げたことを知って、いたたまれぬ思いもした。
 千織を死に至らしめた6人の男女に、何らかの形で罪を思い知らせてやりたいと考えていることは常だった。生きていく上でかけがえのない存在を、自分は奪われてのだ。彼らが奪い去ってしまったのだ。
 望むのは、復讐以外の何物でもなかった。が、それが明確な意思の下に、しかも殺人という手段を用いる形へと収束しはじめたのは、伯父の巽昌章が十角館を手に入れると知った、あの時からである。
 考え抜いた末、計画が出来上がった。
 6人を島で殺し、なおかつ自分が安全に生き延びる、そのための計画が。
 「伯父さんが十角館を手に入れたそうなんだ。行く気があるのなら頼んでやるけど。どうする?」
 思惑通り、彼らは簡単に飛びついてきた。
 話が決まると、進んで準備係を引き受けた。6人の都合と気象台の長期予報を睨み合わせ、日取りを検討した。
 計画上、晴天で波の穏やかな日がどうしても必要だった。幸い、3月の下旬は大きな天候の崩れはない見通しだという。予報を当てにするには危険は賭けではあったが、もしも決行日になって悪条件が重なるようならば、その時は中止することもできる。
 こうして、3月26日からの1週間、と日程が決まった。
 夜具や食料、その他諸々の必要品を揃えた。業者から借りた夜具は6人分だった。とにかく、島へ行く連中に対しては自分も同行すると思わせて、その他一切の人間に対しては、自分は同行せず、島へ渡るのは6人だけであると信じさせるよう、細心の注意を払う必要があった。
 中村青司の名を使って9通の手紙を作った。その目的は二つある。
 一つはもちろん告発だ。中村千織という娘が、彼らの手によって殺されたのだという事実を、どうしても誰かに向かって訴えておきたかった。そしてもう一つは、死者からの手紙という魅力的な餌によって、江南孝明を動かすことだった。
 中村紅次郎に対しても青司名義の手紙を出したのは、江南がそこまで調べるかもしれないと見越した上での布石だった。江南の性格はよく知っている。あんな手紙を受け取れば、きっと彼はいろいろ調べ回った末、自分のところへ相談を持ち掛けてくるだろう。また、たとえこちらから彼に連絡を取ることになったとしても、怪文書の横行はその恰好の口実となってくれる。
 3月25日火曜日。出発の前日、O市内で9通の手紙を投函してからS町へ出向き、頼んでおいた漁船で荷物を島に運んだ。それからいったんS町に戻ると、国東へ行くと偽って伯父の家の車を借り出す。車のトランクには、エンジン付きのゴムボート、圧縮空気ボンベ、燃料用のガソリン缶などが用意してあった。
 ボートは伯父が釣りに使うものだった。伯父は夏から秋にかけてのシーズンしかこれを使うことがないので、ばれる心配はまったくなかった。
 J崎の裏手あたりは、日中でもほとんど人通りがない。その海岸近くの茂みにボートやボンベを隠したあと、適当に時間を潰して車を返しに戻った。今夜はO市に帰って、明日はまた国東へ行くのだ、と伯父には偽の予定を告げた。実際のところは、O市に一度帰ったものの、夜半過ぎにはバイクに乗って、再びJ崎へと向かったのだった。
 O市からJ崎まで、夜中に250ccのバイクを飛ばせば、1時間足らずで着く。海岸の雑木林の中に横倒しにして、上から茶色いシートを被せておけば、まず誰にも見つかる恐れはない。
 隠しておいたボートを組み立て、ウェットスーツに着替えた。そうして月明かりとJ崎の無人灯台が照らす影を頼りに、角島を目指して一人海に出たのだった。
 以前に何度か貸してもらった経験があったので、ボートの操作には慣れていた。
 J崎から角島まで、約30分。
 到着の場所は、例の岩場だった。船はここに隠しておかねばらなない。
 まずボートをたたみ、ボンベと、防水布に包んだ上ゴム袋に密閉したエンジンとをそれでくるんで、しっかりと紐をかける。大きな岩の間の、なるべく直接波が打ち寄せないような水中にこれを沈め、上から石を載せる。さらに紐の一端を岩の角に結び付けておいた。補給燃料用のガソリン缶は、こちらの岩陰とJ崎の草むらの両方に隠してあった。
 月明かりの下、大型のハンディライトを肩にぶら下げて十角館へ向かった。玄関左手の雨の漏る家具のない部屋を自分用に確保し、眠るのは、昼間に運び込んでおいたシュラフを使った。
 こうして、罪人たちを捕らえる罠の準備は整った。

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 今日の十角館の殺人はどうかな?


 角島の十角館で6人の死体が発見された翌々日の4月2日水曜日の昼下がり、K大学のキャンパス2階にあるミステリ研究会のボックスに、都合のついた会員たちが10名ばかり招集された。
 その中には、元会員の江南孝明も混じっているが、担当警部の実の弟である島田潔の姿は見られなかった。
 (遠慮したんだろうか)
 守須恭一はちょっと不安を感じたが、すぐにそれを打ち消した。
 島田警部は部下を2名従えて、定刻にはいくらか遅れて到着した。
 丁寧な挨拶を述べてから、おもむろに本題に入っていった。
 「角島で亡くなった6人の名前をもう一度、繰り返しておきましょうか。山崎喜史、鈴木哲郎、松浦純也、岩崎杏子、大野由美、それから東一」
 その声を聞きながら、守須は6人の顔を思い浮かべていた。
 (ポウ、カー、エラリイ、アガサ、オルツィ、そしてルルウ)
 「この6人のうち、5人は火災当時すでに死亡していたものと思われます。大野と東が、それぞれ絞殺と撲殺。山崎、鈴木、岩崎の3人は毒殺の疑いが強い。残る一人である松詩は、火災発生時にはまだ生きていたわけですが、これが部屋に灯油をまいた上、自らもそれを被って焼身自殺を図った模様なんですな。
 3人に対して用いられたとおぼしき毒物の入手経路にしても、松浦の親戚がO市で大きな薬局をやっていて、彼がそこによく出入りしていたという事実がある。その辺から説明がつきそうでして、我々としては目下のところ、そういった見解を取っています。
 ただ、どうにも動機が掴めんのですな。そこで今日は、皆さんにもお話を伺おうと思いまして、こうして集まってもらった次第です」
 「誰かほかの人間の仕業だとは考えられないんでしょうか」
 「それはちょっと考えられませんな」
 警部があっさりと否定するのを聞いて、守須は思わず漏れそうになる安堵の息を呑み込んだ。
 「まず何といっても、松浦純也が自殺しているらしいということ。加えて、5人の殺害方法及び死亡推定時刻に、ひどいばらつきがある。あのあたりの海は、漁船も滅多に通らんところだとは聞きますが、何者かがこっそり船で乗り込んで、3日以上も時間をかけて大量殺人を行ったとは、常識的に考えられんでしょう」
 「ですけど、警部さん」と言い出したのは、江南だった。
 「去年の青屋敷の事件では、よく似た状況で焼死した中村青司について、他殺の判定が下されたんでしたよね」
 警部が象のような目をじろりと剥いた。
 「あれが他殺と判断された最大の理由は、言ってしまえば、行方不明になった庭師の存在だったんですな。島にいるはずの人間が一人いなくなったわけだから、疑いはおのずとそちらに向けれらた。
 ところが今回、焼け落ちた十角館に秘密の地下室のようなものが見つかって、そこから男の変死体が出てきたんですよ。死亡時期や年齢、体格からして、どうやらその庭師らしい」
 「なるほど」
 「従ってここで、昨年の角島事件は急遽、その解釈の変更を余儀なくされることになったわけです。すなわち、中村青司の死は実は焼身自殺で、事件全体は彼自身が企てた一種の無理心中だったのではないか、と」
 警部は江南と守須に意味ありげに目配せをして、
 「これを裏付けるような新事実が、ある筋から出てきてもいるのでね」
 島田潔が話したのか、と守須は思った。
 いや、彼は、自分の知った事実や自分の考えを警察に知らせるつもりはないと明言していた。だとすると。
 「もしかして、中村紅次郎氏の口から真相が伝えられた?」
 「それはともかくとしてですな」
 島田警部はざっと一同の顔を見渡した。
 「この中で、彼ら6人が角島に行くのを知っていた方はどれくらいおられますか」
 守須と江南の2人が手を挙げた。
 「君達だけか。で、今度の角島行きを提案したのはそもそも誰だったのか、わかりませんかな」
 「そういう声は、前々から彼らの間であったんです」と守須が答えた。
 「そこへ今度つてができて、十角館へ泊れることになったものですから」
 「つて?と言うと」
 「僕の伯父の巽が不動産業を手広くやっていて、前の持ち主からあの建物を買い受けたんです。そこで僕は、何だったら伯父に頼んでやってもいいぞ、と」
 「巽昌章氏ですな。彼の甥っ子というのは君のことでしたか。なのに、君は一緒に行かなかった?」
 「半年前にあんな悲惨な事件があった場所なんて、とても行く気になれなかったので。連中は喜んでいましたけどね。それに部屋数の都合もあって」
 「部屋数?客室は7つだったという話だが」
 「実際には6つしかなかったんです。伯父に聞いてもらえばわかりますが、一つは到底使える状態じゃなかったんですよ。雨がひどくもって」
 あの部屋はには、造り付けの棚以外のものは何もなかった。染みだらけの、今にも落ちそうな天井。床の一部が腐って穴が開きかけていた。
 「では、6人の中で、なんと言うか、旅行の幹事は誰だったんです」
 「僕はそういうわけで、ルルウ-失礼、東のところへ話を持って行ったんです。ただ、彼はいつも松浦を相談役にしていました」
 「東と松浦の2人ね」
 「そういうことになります」
 「個人の荷物の他に、食料だの毛布だのが持ち込んであったようだが、あれはどうやって?」
 「伯父が手配してくれたのを、僕が手伝って運びました。連中が島へ渡る前日に、漁船を出してもらって運んでおいたんです」
 「一応その確認はさせてもらうからね」
 だぶついた顎を撫でまわしながら、警部は再び一同を見渡した。
 「ところでどなたか、松浦純也が今回の犯行に及んだ動機について、心当たりのある方はおられませんかな」
 ざわざわと声が飛び交い始める。自分のそれに加わりながら守須は、心の中ではまったく別の思いを巡らせていた。
 白い顔。
 強く抱きしめればすぐに壊れてしまいそうな、華奢な体。
 俯いた首筋に滑る長い黒髪。
 いつもかすかな当惑を浮かべていた細い眉。寂し気に伏せた切れ長の目。
 そっと笑みを含んだ小さな唇。子猫のような、か細い声。
 (千織)
 研究会の仲間にも他の友人たちにも、誰にもそのことを知らせなかったのは、別に隠していたのでも恥じていたのでもない。ただ二人が、どうしようもなく臆病だったからだ。他人に知られることによって、自分たち二人だけの、ささやかな小宇宙が壊されてしまうことを恐れていたのだ。なのに・・・
 すべてがあの日、突然に打ち砕かれてしまった。
 父も母も妹も昔、同じように突然に連れ去られてしまった。見ず知らずの他者の、強引で身勝手で残酷な手が、家族という暖かなものを何の断りもなく、遠い手の届かぬところへと攫っていってしまった。そして、やっと見つけた千織という大切なものまでが、あの夜また・・・
 無理な飲み方をするような娘では、決してなかった。自分の心臓が弱いこともよく承知していた。きっと、酔って正体をなくした連中によって半ば無理じいされ、強く断るわけにいかず、その挙句に、彼女は彼らに殺されたのだ。
 「守須」と隣席から江南が声をかけてきた。
 「何だい」
 「ほら、例の手紙の件は?」
 「ん?何ですかな」
 二人のやり取りを耳に留めて、島田警部が問うた。
 ポケットから例の封筒を取り出しながら、江南が答えた。
 「連中が島へ出発した日に、こんなものが届いたんです。僕と、それから守須のところにも」
 「中村青司からの手紙、ですか」
 「はい」
 「君達にも来ていたのか」
 警部は江南が差し出した封筒を受け取り、中身を検めた。
 「被害者たちの家にも、松浦を含めてだが、まったく同じものが届いていましてね」
 「これは、島の事件とは無関係なんでしょうか」
 「まず別口の悪戯だとみるのが正解でしょう。いくらなんでも送り主が死人じゃあねえ」
 島田警部は黄色い歯を見せて苦笑した。
 守須はそれに付き合うように口元を緩め、一方で静かに回想の中へと沈み込んでいった。

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 今日の十角館の殺人はどうかな?


 1986年4月1日火曜日、A新聞朝刊の社会面より。


 角島十角館でまたもや大量殺人か


 3月31日未明に発生した、大分県S町、角島十角館の火災現場から、当時同館に宿泊していた6名の大学生の遺体が発見され、身元が確認された。
 死亡したのはK大学医学部4回生の山崎喜史(22)、法学部3回生鈴木哲郎(22)、同学部3回生松松浦純也(21)、薬学部3回生岩崎杏子(21)、文学部2回生大野由美(20)、同学部2回生東一(20)の6名(敬称略、学年は3月時点のもの)。彼らは3月26日水曜日から1週間、サークルの合宿で十角館に滞在の予定だった。
 調べによると、6名のうち5名は火災以前に殺害されていた疑いがあり、昨年9月に同島青屋敷で起こった四十殺人を凌ぐ大量殺人および放火事件として、捜査が進められている・・・


 同日、同新聞の夕刊より。


 十角館の地下室から変死体


 ・・・その後の捜索により、全焼した十角館の地下室から新たに男性の変死体が1体、発見された。死体はかなり白骨化が進行しており、死亡時期は4ヶ月から半年前、年齢は40代後半と推定される。頭部に鈍器で痛打されたと思われる痕跡が認められた。
 この地下室の存在は今回の火災後、初めて明らかとなったもの。そのためこれは、昨年9月の事件以降行方不明になっている造園業者、吉川誠一さん(当時46)の遺体ではないかとの見方が強く、身元の確認が急がれている・・・

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 今日の十角館の殺人はどうかな?


 「あの3人は何者だ」
 傍らの警官に向かって、角島の現場検証から戻って来た警部は尋ねた。
 「ああ、彼らでしたら、大学のサークルの友達だとか。昼頃から事件の様子を聞きに来ていたのですが」
 「ふん」
 警部は3人の方へ向かった。
 「失礼。亡くなった学生諸君と同じサークルの方だそうですね」
 掛けられた声に二人の若者は慌てて目を上げた。
 「警察の者です。私-」
 「やあ、どうも御苦労さんだね」と言って、外を見ていたひょろ長い男がこちらを振り向いた。
 警部は小さく舌を鳴らして
 「やっぱりお前か。どこかで見た後ろ姿だと思ったら」
 「お知り合いなんですか、島田さん」
 若者の一人が驚いた尋ねた。
 「警察にちょっとコネがあるって、いつか言っただろう。コナン君、紹介しょう。県警捜査一課の島田修警部。お察しの通り、彼はうちの寺の次男坊なのさ」
 島田警部は大きなを一つして、自分とは正反対の体格をした弟の、取り澄ました顔を睨んだ。
 「何だってお前が、こんなところにいる」
 「少々わけがあってね、先週からこの2人と行動を共にしていたんだよ」
 島田潔は若者たちに目をやって
 「こっちはK大学のみすてり研究会の守須君と、元会員の江南君」
 「県警の島田です。ミステリというと推理小説ですな。私も若い頃は結構読んだものだが」
 「あのう、差支えのない範囲で、教えてもらえませんか」と江南が申し出た。
 「何が起こってみんな死んでしまったのか、少しでも知りたいんです」
 警部は弟のほうにちらりと目をやってから、軽く口元を引き締め
 「どうせあとで、奴に根掘り葉掘り聞かれるんですから、この程度のことはまあ、ここで話しても構わんでしょう」
 「お願いします」
 「死体はどれもひどい状態でしたが、1体を除いて全部が、火に焼かれる前に死んでいたものらしい。他殺の疑いも強い。残りの1体は焼死ってことですが、これはどうも自殺らしいんですね。自ら灯油を被っていて、しかもこいつの使っていた部屋が火元と思われる。あの仏さん、名前はなんて言ったかな」
 警部は手元のレポート用紙に視線を落としながら、
 「松浦純也、知っているでしょう、もちろん」
 守須と江南は息を呑んで頷いた。
 「本当に自殺なのかい」
 ちょっと呆気にとられたような声で、島田潔が聞いた。警部は鼻筋に皺を寄せて、じろりと弟をねめつけた。
 「まだ断定できん。他の人間も、何で死んだのか、詳しいところは解剖の結果待ちだ」と二人の若者に目を戻して、
 「この松浦純也とはどんな男だったのか、いちおう聞かせてもらえますかな」
 「どんな男と言われても困りますけど」
 守須のほうが答えた。
 「この4月から法学部の4回生で、成績は優秀。頭が切れて弁も立って、多少その、変わったところもありましたが」
 「なるほど、それとですね、守須君。彼らが角島へ行ったのは、研究会の合宿か何かだったわけですか」
 「合宿と言えば合宿ですね。でも、研究会の公式の活動からは離れたものでした」
 「ということは、彼らは会の中でも特に仲が良かったと?」
 「ええ、まあ、そうですね」
 そこへ先ほどの刑事がまたやってきて、島田警部に何事か耳打ちした。
 「よし、分かった」
 警部はコートのポケットに両手を突っ込みながら、のっそりと立ち上がった。
 「私はちょっと他があるので、近いうちに多分、研究会の諸君には集まってもらうことになるでしょうが、その時には元会員の君、江南君でしたか、君も都合をつけて来てください」
 「分かりました」と江南は神妙に頷いた。
 「それでは、また」
 弟に軽く目配せして警部は立ち去りかけたが、ふと思いなおしたようにもう一度、守須と江南のほうに身を傾けた。
 「さっきの松浦純也についてですが、仮に今回の事件が彼の仕業だったとして、ですね、何か動機に心当たりはありますか」
 「さあ」
 首をひねりながら、守須が答えた。
 「僕には信じられませんね、よりによってエラリイが、そんな」
 「誰ですと?」
 「あっ、あの、松浦のことです。エラリイっていうのは彼のニックネームみたいなもので」
 「エラリイというと、例の作家のエラリイ・クイーンと何か関係があるわけですかな」
 「何と言うか、うちの会の慣習みたいなものなんです。そんなふうに海外の有名作家の名前を付けた呼ぶのが」
 「ほう、メンバー全員にですか」
 「いえ、一部の者だけですが」
 「今回の角島行きに参加したのはみんな、そういうニックネームを持ってたメンバーなんですよ」と江南が注釈を加えた。島田警部は面白そうに目をしばたたかせて
 「江南君にも、研究会に入っていた自分にはあったんですかな、同じようなカタカナの呼び名が」
 「恥ずかしながら、ドイルです。コナン・ドイル」
 「ほほう、大家の名ですな。守須君はじゃあ、モーリス・ルブランあたりですか」
 守須はわずかに眉を動かしながら、「いいえ」とつぶやいた。
 それから、口元にふっと寂し気な微笑みを浮かべたかと思うと、やや目を伏せ気味にして声を落とした。


(注意!!!以下「衝撃の1行」です。ネタバレなので反転してます)
 ↓ ↓ ↓
 「ヴァン・ダインです」

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 今日の十角館の殺人はどうかな?


 3人は海岸に出た。
 防波堤から降りて、水際に置かれたテトラポットの上に並んで腰を下ろす。
 江南は膝を抱えた腕を振るわせた。
 「僕は馬鹿だ。あれだけあっちこっち嗅ぎまわっておいて、結局何の役にも立たなかった。3日前はここの港まで来たっていうのに・・・せめて島の連中に一言、注意しろと知らせてやっていたら」
 「仕方ないさ」
 稚まだは痩せた頬をさすりながら、己に言い聞かせるように言った。
 「あんな手紙を真に受けて、僕らみたいに奔走する人間は珍しいだよ。警察にでも知らせてごらん。こんな悪戯をいちいち気にするなって、まず一蹴されてしまう」
 「島田さん」
 守須が口を挟んだ。
 「連中が皆殺しにされたのだとすれば、やはり中村青司が生きていて、ということも」
 「さて、そいつはどうだか」
 「それじゃあ、犯人は誰だと」
 「さあて」
 「それじゃ、島田さん、あの青司名義の手紙についてはどう思います」と江南が聞いた。
 島田は苦い顔で、
 「今となっては、関係ありと考えるしかないだろう」
 「同じ犯人による工作だと?」
 「そう思うね」
 「あれは殺人の予告だったってことですか」
 「それにしては、彼らの角島行きとすれ違いで届いていたるあたり、間が抜けているだろう。僕は別の目的があったんだと思うが」
 「と言うと?」
 「コナン君、最初に君と会った日、君はあの手紙を分析して、確か3つの意味を導き出したっけ」
 「ええ、告発、脅迫、昨年の角島事件を再考しろっている示唆」
 「そうだ」
 島田は物憂げな視線を海に投げた。
 「その示唆に従って、僕たちは去年の事件の再検討を始め、真相を突き止めるに至ったのだ。しかしこれはあくまでも、犯人の予期せざる結果であったと思うんだよ。思うに、犯人があの手紙に込めた真の意図は、君達の罪の告発と、もう一つ、中村青司の影をほのめかすことにあったんじゃないか」
 「青司の影?」
 「つまり、差出人の名前を中村青司にすることで、殺されたはずの青司が実は生きているのかもしれない、という考えを僕らの中に喚起させようと、そうして青司の一種のスケープゴートにできれば、と目論んだ」
 「ということは、島田さんが疑っているのは、もしかして」
 「中村紅次郎氏を?」
 守須がそろりと問うた。
 「中村千織が紅次郎氏の娘だったと分かった今、連中を皆殺しにする動機を持って然るべき人物は、青司氏ではなく彼のほうだから、そう言うんですか」
 江南は島田の顔を覗き込んだ。
 「だけど、彼はずっと別府にいて・・・」
 「あの若者が言ったことを覚えているかい、コナン君」
 「え?」
 「研究会の連中を島まで送ってやったっていう、あの漁師の息子さ」
 「ああ」
 「彼はこう言ったてね。エンジンの付いたボートがあれば、島との往復は難しくない、と」
 「ああ」
 「この数日間、紅さんは論文執筆のため、電話も来局もシャットアウトして、家に閉じこもっていたと言った。だが、果たしてそれは本当だったんだろうか」
 海のほうを見つめたまま島田は独り、小さな頷きを繰り返した。
 「友人としては非常に残念だけれども、僕はやはり紅さんのkじょとを疑わざるをえない。彼は娘を死なされた。しかも、それがきっかけとなって、と彼は言っていたよね。その恋人まで実の兄の殺されてしまった。
 紅さんは十角館の館の持ち主である。何かの折に、娘を殺した連中が島へ行くことを知ったとしても不思議じゃない。そこで彼は、青司の生存を匂わせ、疑いをそちらへそらすとともに、やり場のない怒りを吐露するため、君達にあの手紙を出した。同時に、自分自身に宛てたあの手紙も。自らも被害者の一人であると見せかけるためだろう」
 「確かにね」
 守須が呟いた。
 「一番疑わしいのは紅次郎氏ですね。でも島田さん、それはあくまでも推測の域を出ないことで」
 「そうだよ、守須君」
 答えて、島田は自嘲気味に唇を歪めた。
 「単なる僕の憶測さ。証拠なんて一つもない。そしてね。僕は証拠を探す気もない。このことを積極的に警察へ知らせるつもりもない」
 J崎の陰から2隻の船が姿を現すのが見えた。
 「警察の船じゃないか。こっちへ帰ってくるな。戻ろうか」

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 今日の十角館の殺人はどうかな?


 電話のベルでたたき起こされた。
 枕元の腕時計を見る。午前8時だ。
 守須恭一はのろのろと体を持ち上げ、受話器を取った。
 「はい、守須です。何ですって?角島の十角館が炎上した?どうなったんですか、みんなは?そうですか・・・どうも・・・」
 電話を切ると煙草に手を伸ばした。
 1本を根元を吸ったあと、彼はすぐに2本目を咥えながら、再び受話器を取り上げた。
 「江南か?僕だよ、守須だ」
 「どうした、こんな朝っぱらから」
 「十角館が燃えてしまったらしい」
 「何ぃ?」
 「全員死亡だそうだ」
 「そんな・・・」
 「僕はこれからS町に向かうけれど、お前も来るだろう?島田さんには連絡できるかな」
 「ああ」
 「関係者はとにかく、港の近くの漁業組合の会議室に集まれってことだから、いいね」
 「分かった。すぐに島田さんにも知らせて、一緒に行く」


 3月21日 月曜日 午前11時の角島。
 大勢の人間が右往左往している。
 「警部、S町のほうに、遺族がほぼ揃ったそうです」
 トランシーバーを持った若い警官が叫んだ。警部と呼ばれた、40過ぎの太った男は、ハンカチで口元を押さえたまま大声で怒鳴り返した。
 「よぉし、こっちへ来てもらえ。着いたらすぐ知らせろ。勝手に上陸させるんじゃないぞ」
 それから、そばで黒焦げの死体を調べている検死係に目を戻し、「で、これは?」と尋ねた。
 「男ですね」
 おおきなマスク越しに検死係は答えた。
 「わりに小柄なほうでしょう。後頭部にかなりひどい裂傷がありますよ。鈍器で殴られてこうなったとも考えられますね」
 「ふうん。おおい、そっちはどうだあ」
 少し離れた瓦礫の中で、他の死体を調べている係官に向かって声を投げた。
 「こっちもたぶん男だと思いますが、どうやら火元はこのあたりですね」
 「ほう」
 「この仏さん、自分で油を被ったみたいですよ」
 「ほほう。とすると、自殺かもしれない」
 「そういう可能性も大いに」
 警部が顔をしかめ、逃げ出すようにその場を離れた。それを追って、警官の一人が問いかけた。
 「死体を運び出させますか」
 「遺族が来るまで待ってろ。下手に動かして、死体と身の回り品がばらばらになりでもしたらことだ。誰が誰だが分からなくなる」
 そして、彼はほとんど駆け足で風上に向かった。
 「こりゃあ、昼飯は喉を通らんな」


 S町の漁業組合会議室。
 窓際に一人座った守須は、何本目かの煙草を安物の灰皿で揉み消した。
 (角島、十角館炎上。全員死亡、か)
 そろそろ午後1時になろうかという頃、ようやく江南と島田が姿を現した。
 「どうなんだ島の状況は?」
 江南は勢い込んで聞いた。守須は静かに首を振り、
 「まだ詳しいことはわからない。さっき家族の人が、遺体の確認に向こうへ渡ったところだよ」
 「本当に全員死亡なのか」
 「うん。十角館は全焼。全員が焼け跡から死体で発見されたらしい」
 島田は窓に寄りかかって、ブラインドの隙間から外を眺めていた。江南は守須の横に椅子を持ってきて座り、
 「例の手紙の件は話したのか」
 「いや、まだ言っていない。話すつもりで現物を持ってはきているけど」
 「やられたな」
 窓の外に目をやったまま、島田が呟いた。
 「これはもちろん事故なんかじゃないさ。殺人だよ」
 会議室にいる何人かの視線が3人のほうに突き刺さった。島田は慌てて声を囁きに変え、
 「ここじゃあ滅多な話もできないな。外へ出ないか、二人とも」
 守須と江南は黙って頷き、そろりと椅子から立ち上がった。

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 今日の十角館の殺人はどうかな?


 夜半過ぎ、十角形のホールに人の姿はない。ランプの灯も落ち、そこでは闇だけが、静寂の中でねっとりと絡みあっていた。
 しばらくの後、十角館は火の手を上げた。
 その以上な光は、海を隔てたS町まで充分届いた。

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 今日の十角館の殺人はどうかな?


 ポウの死体は二人の手で彼の部屋に運び込まれた。
 「まさに時限爆弾だな」
 床の上で灰になったポウの煙草を踏みにじって、エラリイは怒りに声を震わせた。
 「ポウの煙草のストックの中に青酸入りのを1本、混ぜておいたに違いない。部屋に忍び込んで、注射器でも使って注入したんだ」
 「中村青司が?」
 「もちろんそうさ」
 「僕らも危なかったのか」
 ランプの炎に目を凝らしながら、エライイは呟いた。
 「考えてみればね、ヴァン。そもそも青司はこの十角館の主だったんだ。島の地理や建物の構造を熟知している上に、十中八九、彼はここの全室の合鍵を持っているんだと思う」
 「合鍵を?」
 「マスターキーかもしれないね。青屋敷に火を放ち、姿をくらます際に持ちだしたのさ。だとすれば、彼は誰の部屋にでも自由に出入りできたわけだ。アガサの口紅に毒を仕込むのも、オルツィを殺すのも簡単だった。ポウの煙草も然りだ。彼は僕らの資格を縫って、影のようにこの建物の中を動きまくっていた。僕らは、十角館という罠に飛び込んだ哀れな獲物だったってことさ」
 「彼は昔建築の仕事をしていたって、何かで読んだ覚えがあるけど」
 「この十角館も、彼自身が設計したものなのかもしれない。文字通り彼の造った・・・いや、待て。ひょっとすると・・・」
 エラリイは鋭い眼差しでホールを見回した。
 「今思いついたことなんだけどね、カーの毒殺に使われた例のカップ」
 「あの十一角形の?」
 「そうだ。結局、あれは目印として利用されたわけじゃなかったことになるが・・・覚えているかい。あのカップについて君が言っていただろう。どうしてこんなものが1個だけあるのか、ってね。
 あのとき僕は、青司の悪戯だろうと答えた。しかし何やら暗示的な趣向ではなる、とも、十角形だらけの建物の中に一つだけ置かれてた十一角形」
 「十角形の中の十一角形、か。それが何か暗示しているのだとすれば・・・」
 呟くうちに、ヴァンはぴくりと眉を動かした。
 「もしかしてここには11番目の部屋があるとか」
 「そう」とエラリイは真顔で頷いた。
 「青司は台所の窓からなんかじゃなくて、その隠し部屋の中から、常に僕達の様子を探ることができた、と?」
 エラリイは唇を曲げて薄く笑った。
 「あの十一角形のカップこそが、その部屋の扉を開く鍵なんだ」


 それは、厨房の床下に設けられた収納庫の中にあった。
 「ここだ、ヴァン」と、エラリイが指さした。
 懐中電灯の光が照らしだした。収納庫の底板。その中央に、意識して見なければ見過ごしてしまうだろう。直径数センチの浅い穴があいており、穴の少し外側には円形の切れ目がある。
 「ヴァン。カップを貸してくれ」
 エラリイは例のカップを受け取ると、床に腹ばいになった。右手に収納庫の中に伸ばして、中央の穴にカップを嵌め込んでみる。
 「やった、ぴったりだ」
 十一角形の鍵穴と鍵が出合った。
 「回してみる」
 ゆっくりと力を込めた。思惑通り、周囲の切れ目に沿ってじりじりと穴が回転しはじめる。やがて、カチッと確かな手ごたえが伝わった。
 まもなく二人の眼下に、地下の隠し部屋へと続く階段が姿を現した。


 10段足らずの階段を降りてしまうと、案の定そこはかなりの広さの部屋になっていた。厨房の真下から、中央のホールのほうに向かって広がっている。
 床と壁は剥き出しのコンクリート。エラリイの上背よりも少し高い程度の天井からは、ところどころ小さな穴が開いているらしい、細いかすかな光が幾筋も漏れ込んでいた。
 エラリイは囁き声で言った。
 「ホールの下なんだ。僕らの話すことは全部、ここに筒抜けだったってわけさ」
 「やっぱり青司は、ここに潜んで?」
 「そうだ。僕らの様子に聞き耳を立てていたに違いないね」
 エラリイはゆっくりと周囲の壁を照らしていった。
 「あれだ」と言って、エラリイは光を止めた。降りてきた階段から向かって右奥の隅に、古びた木製のドアがあったのだ。
 押し殺した声でヴァンが聞いた。
 「どこまで続いているんだろう」
 エラリイはノブを回した。ドアが開く。とたん、二人はたまらず鼻を押さえた。
 「何だ、これは」
 「ひどい匂い・・・」
 生き物が腐敗していく匂いだ・・・
 エラリイは震えの止まらぬ手で懐中電灯を握りなおし、開いたドアの向こうに続く暗闇へと光を投げかけた。
 汚れたコンクリートの床を手前に這い戻るうち、まもなくその光が捕らえたものは・・・異臭の源がそこにあったのだ。
 それはまぎれもなく、すでに半ば白骨化して人間の死体だった。

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 今日の十角館の殺人はどうかな?


 「さて」
 エラリイが口を切ったのは、携帯食ばかりの簡単な食事を済ませ、コーヒーを一杯飲みほした時だった。
 「要点のおさらいだ」
 例の見取り図にちらりと目をくれてから、エラリイは話し始めた。
 「犯人の足跡と考えらえるのは、死体と階段の間を往復する二筋だけだっていう結論が出たんだったね。つまり、犯人は海から来て海へ戻って行ったことになるわけだ。
 犯人は外部の者であると、そう考えるがこの場合、最も論理的だろう。僕らがこの島から出ることができないが、第三者が外からやって来ることはいくらでも可能なんだ。それならば、海を泳いだなんて無理な解釈の必要もない。船を使ったと考えればいいんだからね」
 「船・・・」
 「オルツィにしてもルルウにしてもなぜ、殺されたのが朝早くだったのか。僕らに気づかれないように島へ上陸するには、夜中から早朝にかけての時間が最適だからだ」
 二人の顔を見やりながら、エラリイはポケットからセーラムの箱を引っ張り出した。が、空っぽだと分かってテーブルに放り出す。
 「吸うか」と言ってポウが、煙草入れをエラリイの前へ滑らせた。
 1本とって咥え、エラリイはマッチを擦った。
 「僕も一本、いいかい、ポウ」
 「構わんよ」
 エラリイがポウの煙草入れをヴァンに回す。
 「ところでエラリイ、お前の説が正しいとしてもだ、まず、何だって犯人はあんなプレートを作ったんだ」と、ポウが問うた。
 エラリイは目を補足して、ゆっくりと煙を吐いた。
 「第一に、『犯人』が7人の中にいるのだと、僕に信じ込ませる効果がある。それだけ外部に対しては無防備になるってことだ」
 「第二は?」
 「心理的圧迫、だろうね。最後のほうに残った何人かが互いを疑い、殺し合うかもしれない、とそこにも犯人の狙いはあったはずだ。いずれにせよ、この犯人の最終目的じゃ、7人の皆殺しにあると考えて良さそうだ」
 「ひどい話だ」
 煙草に火を点け、ヴァンは呟いた。
 「もう一つ疑問に思うのは」
 太い親指をこめかみに押し付けながら、ポウは言った。
 「犯人としてはあくまでも、内部の人間の犯行だと思わせたかったはずだ。とすればあの場合、屋敷跡の入り繰りを往復するなりして、足跡を余分に残しておくのが賢明な方策だろう。そのくらいの工作はやろうと思えばできたはずだが」
 「足跡が残っていることに気づかなかったんじゃないか」
 「そしてそのまま、本土へ帰っていったわけか。『第三の被害者』のプレートは、じゃあいつ貼り付けたんだ」
 「それは・・・」
 ヴァンが答えに詰まると、ポウはエラリイのほうに向きなおり、
 「どう解釈する、エラリイ」
 「犯人としてはやなり、入口と階段を往復する足跡を作りたかっただろう。それをしなかったということは、そこに何かやむをえぬ事情があったってことだが、ルルウ殺しの状況を考え合わせてみるとその説明がつく。
 おそらくルルウはあの岩場で、犯人と船を、たぶん犯人が島から離れようとしているところを見てしまったんだ。
 ルルウは事態を察し、逃げ出した。それに気づいた犯人が、慌てて追いかける。この時当然、ルルウは助けを求める声や悲鳴を上げたに違いない。足の遅いルルウに追いついて殴り殺したあと、犯人は焦った。今の声を聞いて、他の者がすぐに起き出してくるかもしれない。
 仕方なく犯人は、足跡の件は捨て置いて岩場に戻り、とりあえず船を入江のほうへ回して、ルルウを探し始める声はないかと上の様子を窺った。幸運にも、誰も騒ぎ出す気配はない。そこで犯人は十角館へ上がり、台所の窓からでも中を覗いてみて誰も起きていないことを確かめると、ホールに忍び込んでドアにプレートを貼り付けた。そうしてすぐ、足跡問題はもう諦めて島を離れたってわけだ」
 「ふうん、犯人はゆうべもずっと、この島にいたわけか」
 「毎晩来ていたんだと思う。夜になると島に上がってきて、僕らの動きを監視していたのさ」
 「その間、船は入江か岩場に着けっぱなしにしてあったと?」
 「小さなゴムボートならば簡単に畳める。林の中まで持って上がることもできるし、おもりを付けて水の中に沈めておいてもいい」
 「ゴムボート?」
 ポウは眉をひそめた。
 「そんなもので本土と行き来できるのか」
 「本土である必要なないのさ。すぐに絶好な隠れ場所があるだろう」
 「猫島?」
 「犯人はあそこにキャンプを張っているんだと思うね。あの島からなら、手漕ぎのゴムボートであれば充分だよ」
 ポウはテーブルに片肘を付くと、苦々し気に問いかけた。
 「じゃあエラリイ、猫島に潜むその真犯人というのは、いったい誰なんだ」
 「中村青司さ、もちろん」
 エラリイは即座に断言した。
 「青司が生きているという可能性はまあ、一歩譲って認めるとしようか。しかしな、もっと他の人間ならがどうか知らんが、その青司に、俺たちを皆殺しにするどんな動機があるって言うんだ」
 「動機ね、それが実は大ありなのさ」
 「本当か」
 「何だい、エラリイ」
 「中村千織、覚えてるだろう」
 「中村千織、あの?」
 ヴァンの声が小さく落ちた。
 「去年の1月、僕らが不注意で死なせてしまった後輩、あの中村千織だ」
 「中村・・・中村青司、中村千織・・・」
 呪文でも唱えるように、ポウが呟く。
 「しかしそんな、まさか」
 「その、まさかさ。僕にはそうとしか考えられない。中村千織は中村青司の娘だった、と」
 「ああ・・・」
 ポウは鋭く眉根を寄せると、煙草入れのラークを1本叩き出して、直接口に咥え取った。
 「半年前この島に起こった事件の犯人は、中村青司その人だった。彼は行方不明になった庭師か、あるいは誰か、自分と体格や年齢、血液型が一致する男を探してきて、自分の身代わりに焼死させ、生き残ったんだ。そうして、娘を殺した僕らに対する復讐を・・・」
 その時突然、ぐふぅという異様な声が、ポウの喉で爆発した。
 「ポウ?」
 がたんっと激しい椅子が鳴った。ポウのごつい体が、もんどりうって床に倒れた。
 凄まじい痙攣とともに、仰向けに転がった彼の四肢が宙に突き上げられ、そのままどたりと床に落ちた。それが、ポウの最期だった。
 先の方を吸っただけで投げ出されたラークが、青いタイル張りの床の上で紫煙を上げて昇らせている。

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 今日の十角館の殺人はどうかな?


 ずぶぬれになるのも試みず、エラリイは雨の中を駆けた。
 途中で一度だけ立ち止まり、後ろを振り返った、ポとヴァンが追いかけてくるのを確かめると、
 「急げ!雨で足跡が消えてしまう」
 そう叫んで、全力でまた駆け出した。
 こうして屋敷の前庭に出た時、ルルウが倒れていたあたりにあった例の足跡は、まだかろうじて元の形を留めていた。
 まもなくポウとヴァンが追いついた。乱れに乱れた呼吸を整えながら、エラリイは足跡の方を指さした。
 「僕らの運命がかかっているつもりで、とにかくあの様子をよく憶えていておいてくれ」


 濡れた服の着替えをすますと、3人はすぐにまたホールに集まった。
 「二人とも近くに来てくれないか。重要なことなんだ」
 そう言ってエラリイは、部屋を持ちだしてきた一冊のノートを開き、ペンを握った。
 「忘れないうちに図を書いておこう」と言ってエラリイは、ノートのページのいっぱいに縦長の長方形を描いた。
 「まずこれが、青屋敷の敷地だ」
 続いてその内側、上半版に横長の長方形を描き、
 「これが建物の跡-瓦礫の山だね。そしてここが、崖から岩場に降りる階段」
 大きい長方形の左辺中ほどに、その印をつける。
 「右下が十角館のある方向だね。下辺は松並木。で、ルルウは前庭のこのあたりに倒れていた」
 と、中央寄りの下の方に、死体を示す人型を描き込んだ。
 「さあ、足跡は?」
 「まず、屋敷への入り口-例の松のアーチだな、ここから崖の階段へ向かっているのが一筋あった」
 せわしく顎髭をいじりながら、ポウが答えた。
 「同じ入口からまっすぐにルルウの死体へ向かう足跡と、死体から入口へ戻っていくのとが入り混じって三筋ずつ。それから・・・」
 「階段からルルの倒れていた地点に向けて、二筋」
 自分で言いながら、エラリイは、次々と、あれらの足跡を表す矢印を図中に描き込んでいった。ポウは頷いて、
 「それとももう一筋、死体からまっすぐ階段へ向かうのをあったと思うが」
 すべての矢印を描き終えると、エラリイは見やすい位置にノートを置きなおした。






 「あの時僕は、松のアーチから屋敷跡へ出てすぐに、ルルウの死体を発見した。ほどなく君達2人もやって来て、まっすぐに死体のそばまで駆けつけた。そしてそのあと、僕とポウで死体を持ち上げ、続いてヴァンが、来た時と同じ経路で十角館へ戻ったんだったね。したがって入り乱れて往復しているこの3組は、僕ら3人の足跡だったわけだ。これは検討の対象から外せるとして、おかしいとは思わないかい」
 「おかしい?この足跡がか」
 眉を寄せ、ポウが聞き返した。
 「ルルウを発見したときに付いた俺たち3人の足跡を消すとだ、残るは入口から階段へ向かうのが一筋、階段から死体へ向かうのが二筋、それと、死体から階段へ戻っていくのが一筋」
 「入口から階段へ向かった足跡は、ルルウのものと考えて間違いない。階段から死体まで続く足跡のうちの片方も、当然ながらルルウのだ。とすると、残る二筋、階段と死体の間を往復する一組が犯人の足跡だという話になるけれども、はて、犯人はどこから来てどこへ戻って言ったのか」
 「階段・・・」
 「そうだ。ところがその階段の下には海しかないんだな。
 あの下の岩場は、左右とも切り立った断崖だ。海からこの島に上陸するためには、この岩場からの階段か、入江の桟橋からの石段か、どちらかを利用するしかないわけだが、じゃあ、犯人は、この岩場までどのようにして来たのか。ここからどこへ行ったのか。入江の方へ行くには、あの出っ鼻みたいなぜっぱきを迂回するしかない。水深はかなりある。犯人は泳がなきゃならないわけだよ。この季節に、水温がいったい何度あると思う」
 ヴァンはテーブルの上のノートにじっと視線を注いだまま、
 「それで?」
 「だから問題は、犯人はなぜそういう行動を取ったのかっていうことなんだがね」
 「ふむ」とまた低い唸り声を漏らしてから、ポウが口を開いた。
 「犯人は、今この十角館にいる俺たち3人のうちの一人。だったら彼は、何もわざわざ岩場に降りて、海の中を通るなどして戻ってくる必要はなかったわけだな。足跡の大きさや形は、地面を踏みにじるようにして歩けばいくらでもごまかせただろう。鑑識の専門家がいるわけじゃないんだしな。そうしなかったってことはつまり、何かのっぴきらなぬ理由があって、海のほうへ戻っていかざるをえなかったのだと考えられるが」
 「その通りさ。答えはあまりにも明白だろ」
 


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 今日の十角館の殺人はどうかな?


 「振り出しに戻る、だね」
 ホールのテーブルに戻ると、エラリイは改めて二人の顔を見据えた。
 「十角形のカップの中には、1個だけ十一角形のものが混じっていた。これに毒を塗りつけておいて、もしも自分にまわってきた場合には、黙って口をつけなければ良かった」
 「何で1個だけ、あんなカップがあったんだろう」と、ヴァンが問いかける。
 「中村青司の悪戯じゃないかな」
 エラリイは薄い唇に微笑みをたたえた。
 「十角形づくしの建物に、たった一つだけ十一角形を埋もれさせておくなんて、なかなか心憎い趣向じゃないか。
 さて、犯人は次に、他の者が寝静まるのを待って、死体のあるカーの部屋に忍び込んだ。そこで、御苦労にもまた死体の左手を切り取り、それを浴室のバスタブに放り込んだ。
 みんなが神経過敏になりはじめていたあの状況だ。やはり手首の件には、何か強い目的意識があったと考えられるわけなんだが・・・どうも謎だな、これは」
 「次はアガサ、いやルルウが先か」とヴァンが受けた。
 エラリイは「違うね」と首を振って、
 「その前に僕、エラリイの殺害未遂がある。昨日の地下室の事件さ。
 あの前夜、カーが倒れる直前か、僕は青屋敷の地下室のことを口に出したね。それを聞いた犯人が、恐らくカーの手首を切断したり例のプレートをドアに貼り付けたりしたあと、外へ忍び出してあのワナを仕掛けておいた、と考えられる。被害者として、僕自身を消去したいところだけども-」
 エラリイは2人の反応を疑った。ポウとヴァンは黙って目を見合わせ、否定の意を表した。
 「そうだな、あれが狂言じゃなかったという保証はない。軽い負傷でもあったしね。で、今朝のルルウ殺しだが」
 エラリイはここで少し考え込んだ。
 「屋外のあんな場所で、しかも撲殺、それまでの2件で犯人が執着を示した手首の見立ても、今回は施されていない何やら異質な感じがする」
 「確かにな。だがそれにしても、俺たち3人が揃って犯人でありうることに変わりはなかろう」とポウ。
 エラリイは細い顔をしきりに撫でまわしながら、
 「それはそうなんだが。ルルウの殺害状況に関する検討は、ちょっと後回しにしようか。もう少し考えてみたい。
 最後にアガサの事件。さっき調べて分かった通り、青酸カリだがナトリウムだかが彼女の口紅に仕込まれていた。問題はいつどうやって毒が塗られていたか、この一点だけだね。
 あの口紅は常に、彼女の部屋の化粧品用のポーチの中にあったはずだ。オルツィとカーが殺された一昨日以降は、アガサはすっかり神経質になってから、どんな時でも部屋に鍵を掛けるのを忘れなかっただろう。犯人が忍び込む隙なんかまったくなかったに違いない。彼女が今朝倒れたとなれば、毒が仕込まれたのは昨日の午後から夜にかけて、ということになる」
 「エラリイ、いいかな」
 「何だい、ヴァン」
 「アガサの今日の口紅、昨日までとは違う色だったように思うんだけど」
 「何?」
 「昨日は一昨日も、彼女が使っていたのはもっとくすんだピンク色だったよ。ローズピンクっていうのかな」
 エラリイはテーブルの縁を指先を叩いた。
 「そういえば、ポーチの中には口紅が2本あって、片方はピンクだったな。なるほど、赤のほうの1本だけ、もっとも前から毒が塗ってあったのか。1日目か2日目か、まだアガサが警戒していない頃に部屋に忍び込んで、赤の口紅に毒を仕込んでおいた。ところが彼女は、今朝になるまでそっちを使わなかった」
 「時限爆弾だな」
 顎髭をいじりながら、ポウは言った。
 「こいつも、3人平等にチャンスはあったわけだ」
 「しかしポウ、この3人の中に犯人がいると前提したからには、これ以上もう、誰でもありうると言ってうやむやにしておくわけにもいかないだろう」
 「どうしようとって言うんだ」
 「さしあたり多数決でも採ろうか」
 エラリイは涼しい顔で言った。
 「というのは冗談だけどね、とにかくそれぞれの意見を聞いてみようか。誰がいちばん怪しいと思う、ヴァン」
 「ポウだね」
 意外なまであっさりと、ポウはそう答えた。
 「僕もヴァンと同じで、どちらかと言えば怪しいのはポウだと思う」とエラリイは淡々と言ってのけた。
 ポウは動揺の隠せぬ上ずった声で、
 「何だって俺が、仲間を4人も殺さなければならん。言っておくがな、お前たち2人にも動機がある。
 まずはヴァンだ。お前は確か中学の頃、強盗に両親を殺されたんだってな。妹も一緒だったか。だからお前にとっちゃ、人殺しをネタにして喜んでいる俺たちみたいな学生は、たいそう腹の立つ存在なんじゃないのか」
 とげとげしく繰り出されるポウの言葉は、ヴァンはさっと蒼白になった。
 「そんな・・・腹が立つようなら、わざわざ大学で推理小説の研究家なんか入ったりしないよ」
 ヴァンは静かに反論した。
 「あれはもう、昔のことだ。それにね、ミステリファンが人殺し礼賛しているなんて、僕はこれっぽちも思ってやしない。だからこうして、こんなところにまで一緒に来てるんじゃないか」
 それっきり3人は黙り込んでしまった。そんな状態がどれほど続いた頃だろうか。
 「おや、雨か」
 天窓のガラスに並び始めた水滴を眺めながら、エラリイは呟いた・・・と、突然、声にならない声を発して、エラリイは天井を仰いだまま立ち上がった。
 「どうした」
 ポウが胡散臭そうに問うた。
 「いや、ちょっと、待ってくれ」
 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、エラリイはきっと玄関のほうへ振り向き、椅子を掛けだした。
 「足跡だ!」

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 今日の十角館の殺人はどうかな?


 3人はホールの椅子に離れて座った。
 「最後の被害者、探偵、殺人犯人・・・か」
 ホールに戻って自分のコーヒーを淹れながら、エラリイは独りごちた。
 「まったく信じられないな」
 妙な空々しい調子で、ポウが口を切った。
 「俺たちのうちの一人が、4人の仲間を殺した犯人なんだぜ」
 「あるいは中村青司がね」と、エラリイが付け加えた。
 ポウは苛立たし気に首を振って、
 「可能性は否定しないが、やはり俺は反対だな。そもそも彼が生きているという説自体、賛成しかねる。あまり絵空事めいている」
 エラリイは、「ふふん」と鼻を鳴らした。
 「じゃあ、この中に犯人がいるわけだ」
 「だからそう言ってる」
 ポウは憤然とテーブルを叩いた。エラリイは動ずる様子もなく横髪を撫でつけながら、
 「もう一度、最初から検討してみるかい」
 椅子に背を向け、天窓を仰ぎ見た。空は相変わらず、どんよりと暗い。
 「始まりは、あのプレートだったね。誰かがあらかじめ用意して、島に持ってきた品だ。大してかさばる代物でもないから、気づかれないように持ち込むのは容易だったろう。犯人は僕らの3人の中の誰でもありうる。
 3日目の朝、犯人はプレートの予告を実行に移した。『第一の被害者』はオルツィーだ。犯人は彼女の部屋に窓から、あるいはドアから忍び込み、首を絞めて殺した。凶器の紐は、死体の首に残っていたと言ってたね、ポウ。まず問題とするべきなのは、犯人がどうやってオルツィの部屋に入った、か。
 発見当時、ドアにも窓にも鍵が掛かっていなかった。前の日、最初にあのプレートを見つけたのはオルツィだった。相当に怯えて、不安を感じていたに違いないね。
 とすると、どうだったか。考え方はいろいろあるだろうが、基本的には次の二つに絞ることができると思う。一つは、窓の方の掛け金だけをオルツィが掛け忘れていて、犯人はそこから忍び込んだのだという考え方。もう一つは、犯人が彼女を起こして、ドアの鍵を開けさせたのだという考え方だ」
 「窓から忍び込んだのなら、どうしてドアの鍵まで外してあったのかな」とヴァンが質問した。
 「プレートを取りに出たか、あるいはプレートを貼り付けるため、とも解釈できるね。しかし、ポウの主張に従って犯人を内部の者に限定するのなら、僕はむしろ後者、すなわちオルツィにドアを開けさせたという考え方のほうに焦点を当てるべきだと思う。
 いくら早朝で、彼女がまだ眠っていたとしても、あの窓から部屋に入るには多少の物音が伴っただろう。そんな危険の冒すよりも、研究会の仲間なんだったら、何か口実を設けて彼女を起こして、平和的に招き入れてもらうほうを選ぶんじゃないか。オルツィはああいう性格だった。訝しく思いはしても、無下に突っぱねるようなことはできなかった」
 「でも、オルツィは寝間着姿だったんだろう。男を部屋に入れるかな」
 「緊急の話だからと強く迫られたら、断わるに断り切れない子だよ。だけど、その点にこだわるとすれば」
 エラリイは横目遣いにポウを見た。
 「かぜん怪しくなるのは君だね、ポウ。彼女の幼馴染なんだから、警戒される度合いは当然、僕やヴァンよりも少ないだろう」
 「馬鹿な」
 ポウががっと身を乗り出した。
 「俺がオルツィを殺した?冗談じゃないぞ。
 手首の件はどうなんだ。何だって俺が、彼女の手を切り落として持ち去らなきゃならん」
 「今のが唯一無二の答えじゃないことくらい分かってるさ。可能性はいくらでもある。ただポウが最もそれらしいというだけの話だ。
 さて、手首の問題だね。犯人が去年の青屋敷の事件を意識していることは確かなんだろうけど、何のためにそんな見立てを行ったのかについては、正直なところ僕はわからない。ヴァンはどう思う?」
 「さあ、僕達を攪乱するため、とか」
 「ふん、ポウは?」
 「攪乱だけのために、あんな真似をするとは考えられんな。大きな物音を立てないように手首を切り落とす作業は、それだけでもかなりの苦労だったはずだぞ」
 「なるほど。相応の必然性があったはずだってわけか」
 エラリイは首をひねり、長い息をついた。
 「これはちょっと置いておくとして、とりあえず次に進もうか。カー殺しだ。
 この事件についても、結論から言えば、唯一これしかないという解答は割り出せない。あのあと議論した限りでは、僕らの中じゃあ少なくともヴァンには、カーのコーヒーに毒を入れる機会がなかったことになる。あらかじめカップに毒を塗っておくという方法であれば、誰にでもチャンスはあったわけだけれども、問題のカップに、他のカップを識別できるような目印がなければ仕方がない。
 ともあれ、アガサが殺されてしまった今、毒の投入があの場で、手品まがいの早業にいって行われたのだすれば、遺憾ながら犯人はこの僕だという話になる。しかし」
 「前もって俺が、遅効性のカプセルに毒を入れて与えておいたかもしれない、か」
 ポウが口を挟んだ。エラリイがにっと笑って、
 「あまり頭のいいやり方とは言えないね。ポウが毒入りカプセルを与えていたとしても、あの場合はカーがたまたま、コーヒーを飲んでいる時に倒れたから良かったようなものおの、もしも何も口にしていないときに毒が聞き始めてみろ、医者の卵である自分が一番に疑われてしまう」
 「賢明な判断だな」
 「ただし、もう一つの別の方法が、可能性としては存在する。
 ポウは医学部の秀才、しかも家はO市で有数の個人病院だ。ポウはカーの健康上の問題をよく把握していたと仮定する。
 そこへあの夜、カーが突然その発作を起こした。で、真っ先に駆け寄ったポウは、介抱するふりしながら、どさくさにまぎれてヒ素だかストリキニーネだかを飲ませた」
 「よほど俺を疑ってるらしいが、その説はあまりに非現実的だな。話にならん」
 「単に可能性をあげつらってるだけだから。けれどの今の非現実的だと言って否定したいのなら、同じ理由で僕の早業説も否定してもらいたいね。
 隠し持っていた薬を、自分のカップを取る瞬間に隣のカップへ投げ込むなんて芸当は、口で言うほど易しくないよ。それよりもあらかじめカップに毒を塗っておいて、何か目印を付けておくほうがはるかに容易だし、安全でもある」
 「だが実際問題として、あのカップに目印らしきものはなかった」
 「そう、だからどうして引っ掛かるんだな。本当のカップには目印がなったんだろうか」
 エラリイは手元のカップを傾げてしげしげと見つめた。
 「傷はなかった。欠けてもなかった。他と同じモスグリーンの、十角形の・・・いや、待てよ。もしかすると・・・」
 エラリイは椅子から腰を浮かせて、
 「ポウ。あの時のカーのカップは、確かあのまま取ってあったな」
 「ああ、台所のカウンターの隅に」
 「二人とも来てくれ」
 言うが早いか、エラリイは小走りに厨房へ向かった。
 門亜ぢのカップはカウンターの上に、白いタオルをかぶせて置いてあった。エラリイはそっとタオルを取り去った。
 「やっぱりそうか」
 カップを真上から覗き込むと、エラリイは強く舌打ちをした。
 「あの時気づかなかったのが不思議なくらいだ」
 「何がどうだって?」
 ヴァンが首を傾げた。ポウも解せぬ顔で、
 「俺には他と同じに見えるが」
 「見えてないのさ」
 エラリイはもったいぶった調子で言った。
 「十角形の建物に十角形のホール、十角形のテーブル、十角形の天窓、十角形の灰皿、十角形のカップ・・・いたるところで僕らの注意を引きつけた十角形の大群が、僕らの目を見えなくしてしまっていた」
 「え?」
 「このカップには、やはり目印があったんだよ。明らかに他のカップとは異なる点がね」
 ややあって、ポウとヴァンはほぼ同時に「ああ」と声を漏らした。
 エラリイはしたり顔で頷いて、
 「この建物にちりばめられた十角形という意匠全体が、大きなミスティレクションになっていたわけさ。このカップは十角形じゃない。11個、角がある」

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 今日の十角館の殺人はどうかな?


 十角館に戻ると、彼らはまずルルウの死体を部屋に運び入れた。
 ドアの鍵は、ジャケットのポケットに入っていたのがすぐに見つかった。上着もズボンも汚れてたどろどろだったが、ともかくにもベッドに寝かせてやる。
 拾ってきた眼鏡をナイトテーブルに置いたヴァンに向かって、
 「洗面器か何かに、水を汲んできてくれないか。それとタオルもだ。顔だけでもきれいにしてやろう」
 死体に毛布を掛けながら、エラリイが言った。
 続いてエラリイとポウは、洗面所のアガサの死体に取り掛かった。彼女の部屋のベッドに運び、胸の上で手を組ませて、乱れた髪と衣服を整えてやる。
 「青酸か」
 永遠の眠りに沈んだアガサの顔を見下ろして、エラリイは呟いた。
 「死後3時間ちょい、と言ったところだ。今朝の8時ごろか」
 ポウが見解を述べたところに。ヴァンが入って来た。
 「洗面所の前にこんなものが落ちていたよ。アガサのだろう」と言って、黒いポーチを差し出した。
 エラリイは何気なくそれを受け取ったが、ふと思いついたようにその中身を調べ始めた。
 「このポーチの口は?」
 「開いたまま落ちてて、床にこぼれたものもあったから」
 「拾い集めてきたのか」
 ファンデーション、頬紅、アイシャドウ、ヘアブラシ、クリーム、化粧水。
 「こいつか」とやがてエラリイが取り出したのは、2本の口紅だった。両方のキャップを外して、中の色を比べる。
 「あまり鼻を近づけるなよ、危険だぞ」
 エラリイの意図を察したらしく、ポウが言った。
 「分かってるさ」
 2本の口紅の色は、赤とピンクだった。エラリイは赤のほうは匂いを用心深く確かめると、頷いてポウに回した。
 「正解だな、エラリイ。たっぷり毒が塗ってあるようだ」
 「ああ。まさに死に化粧だね。白いドレスの死に装束、おかけに毒殺ときてる。まるで童話の中の姫君じゃないか」
 ベッドのアガサに改めて悲し気な目をくれると、エラリイはポウとヴァンを促して部屋を出た。静かにドアを閉めながら、
 「おやすみ、白雪姫」
 3人は再びルルウの部屋に向かった。

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 今日の十角館の殺人はどうかな?


 「なんてことだ。アガサは4番目だったっていうのか」
 エラリイは猛然とダッシュしてルルウの部屋のドアに飛びついた。
 「ルルウ、ルルウ!駄目だ。鍵が掛かっている。ヴァン、合鍵はないのか」
 「そんな。ここはホテルじゃないよ」
 「破るしかないな」
 「待て」
 身構えるポウを、エラリイを手を挙げて制した。
 「ドアは外開きだぞ。外へ回って窓を壊した方が早い」
 玄関に向かおうとしたエラリイが言った。
 「扉の紐がほどけてる」
 昨日、二つの取ってを紐で結び合わせておいたのが解かれ、その一端がだらりと垂れ下がっていたのだ。
 「誰かが外に出たんだな」
 「とすると、ルルウは・・・」


 ポウが椅子を振り上げ、力任せに打ちつける。その幾度の繰り返しによって、ルルウの部屋の窓は破られた。
 ところが、部屋の中にルルウの姿はなかった。


 「手分けした探そう。おそらくもう、生きちゃいないだろうが」
 言いながらエラリイは、片膝を折って右足首の包帯をさすった。
 「いいのか、足の具合は」とポウが聞いた。
 「走るくらい平気さ」
 立ち上がって、エラリイはヴァンを見やった。ヴァンは芝生の上にうずくまって身を震わせていた。
 「ヴァン、君は呼ばれるまで玄関口にいるんだ。休んで、とにかく気を鎮めろ」
 息を整えながら、エラリイは冷静に指図した。
 「ポウはまず、入江の方をみてきてくれ。僕はこの建物の周辺と、あっちの屋敷跡のほうを調べてみる」


 「ヴァン!ポウ!」
 遠くからエラリイの声が聞こえてきた。右手の、青屋敷の方向からだった。
 ヴァンは腰を上げ、小走りにそちらに向かった。
 ルルウが地面に倒れ伏していた。横を向いた顔の半分が、黒い土の中にめりこんでいる。伸ばした右手の先に、愛用の丸眼鏡が落ちている。
 「殴り殺されてる。その辺に転がっている石か瓦礫で、頭を打たれたんだろう」
 そう言ってエラリイが、赤黒く割れた死体の後頭部を差し示した。
 「ポウ。調べてくれないか。辛いかもしれないが、頼む」
 「ああ・・・」
 ポウは死体のそばに屈み込んだ。
 「死斑が出ているな」
 ポウが押し殺した声で言った。
 「ただし、指で押すと消える。死後硬直は、かなり進んでいる。気温の影響もあるからはっきりとは言えんが、そうだな、死後5時間から6時間としったところか」
 自分の腕時計をちらりと見て、
 「殺されたのは、今朝の5時から6時」
 「夜明け頃か」と、エラリイがつぶやいた。
 「とにかくルルウを、十角館へ運んでやろう。このままじゃあ可哀そうだ」
 そう言って、ポウは死体の肩に手をかけた。
 「足のほうを持ってくれるか、エラリイ」
 「足跡が・・・」
 呟いて、彼はすっと地面を指さした。昨日の前のためだろう、灰混じりの地面は非常に柔らかな状態になっており。そこに幾筋かの足跡が形を留めているのだ。
 「まあ、いいか」
 やがて
エラリイは、腰を屈めて死体の足に手を伸ばした。
 ヴァンは汚れたルルウの眼鏡を拾い上げた。

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 今日の十角館の殺人はどうかな?


 ヴァンは腕時計のアラームで目を覚ました。
 (午前10時か)
 肉体的にも精神的にも相当に参っているのが、自分でもよく分かった。
 (無事に帰れるだろうか)
 正直言って、怖い。恐ろしくてたまらないのだ。できることならが子供のように泣きわめいて、すぐさまここから逃げ出してしまいたい・・・
 ホールに出るなり、二部屋おいた左手のドアが、半分開いたままになっているのに気づいた。厨房の手前、洗面所のドアである。
 洗面所のドアの向こうには、白いものが倒れていた。それはアガサの身体であった。
 「あ・・・あ・・・」
 右手で口を押えて、ヴァンは立ち尽くした。
 がくがくと震えやまぬ足を、ポウの部屋に向かって必死で引きずった。


 力任せにドアを打つ乱暴な音で、ポウは飛び起きた。
 「何だ。どうした」
 ドアを押し開け、隙間からホールに滑り出た。
 「どうした、ヴァン。大丈夫か」
 ポウが背中に手をかけると、ヴァンは片手を口に当てがったまま、もう片方の手を挙げて隣の洗面所を指さした。
 「ア、アガサが・・・」
 ヴァンの返事を聞き取るや、ポウはひとっ飛びに洗面所へ向かった。そして半開きのドアから中を覗き込むなり、
 「エラリイ!ルルウ!起きろ、起きてくれ!」
 ポウは大声を張り上げた。


 「どうしたんだ」
 答えると同時にエラリイはドアを開けた。
 ポウの部屋の前で、ヴァンが四つん這いになっていた。その向かって右隣、エラリイの部屋のちょうど正面に位置する洗面所のドアが今、開け放たれている。中で仰向けに倒れている。あれはアガサか。その傍らにポウがいた。
 ポウはエラリイを振り返った。
 「ヴァンが苦しんでいる。吐かせてやってくれ」
 エラリイはヴァンに駆け寄り、助け起こして厨房へ連れていった。
 「アガサを見つけたら、急に」
 流し台に顔を伏せ、ヴァンはぜいぜいと喘いだ。その背中をさすってやりながら、
 「水を飲む方がいい。胃の中は空っぽだろう」
 「自分でやるから、それより、あっちの方を」
 エラリイは身を翻し、厨房を出て洗面所のポウの側に駆け付けた。
 「また毒だ。今度は青酸のようだな」
 アガサの死体は、ポウの手によって仰向けにされていた。
 ここで化粧を済ませたところだったらしい。仄かに漂う甘い香りが、ポウの意見の拠り所と見えた。
 「こいつが例の扁桃臭ってやつか」
 「そうだ。とにかく、エラリイ、部屋に運んでやろう」
 ポウが死体の肩に手を伸ばした時、厨房からヴァンがよろよろと出てきた。
 「ねえ、ルルウは?」
 「そういえば・・・」
 エラリイとポウは、この時になって初めてルルウの部屋のドアに目を向け、そして同時に「ああっ」と叫んだ。
 『第三の被害者』
 そこには赤い文字の例のプレートが、彼らをせせら笑うように貼り付いていたのである。

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 今日の十角館の殺人はどうかな?

 一晩中、悪い夢を立て続けに見ていたような気がする。
 ルルウはけだるい腕を伸ばして毛布を拾い上げ、膝に掛けた。
 霧に包まれた頭の中に四角いスクリーンが下りてくる。その画面に4日前この島に上陸した当初の仲間たちの顔が、次々と大写しになっていく。
 自分を含めれば7人とも、それぞれの形で、このちょっとした冒険旅行を楽しんでいた。無人島という解放感に溢れたシチュエーション、過去の事件に対する好奇心、漠然としたスリル。多少のハプニングやトラブルがあったとしても、かえってそれがほどよい刺激となって、1週間という時間などあっと言う間に過ぎ去ってしまうだろうと思っていたのだ。なのに・・・
 オルツィーの首に巻き付いた細い紐が、黒い毒蛇が姿を変えてしゅるしゅると動く。
 次はカーだ、骨太の身体が苦痛にねじれ曲がる。激しい痙攣、嘔吐、そして・・・
 「なぜ何だ」
 地下室の闇に落ちていくエラリイの身体。険しいポウの声。蒼ざめたヴァンの顔。ヒステリックのアガサのふるまい。
 頭の中のスクリーンに、黒い人影が映し出される。
 黒いその影がにわかに形を整え始め、やがてそれは小柄の色白の一人の女性の姿に変わっていく。
 あの中村千織という子が中村青司の娘だったなんて、そんなことがありうるのだろうか。
 「そんなこと、あるわけない」
 ルルウは考えた。海だ。ここは、これは・・・
 (昨日のだ)
 これは昨日出会った光景だ。
 何かに憑かれたようだった。
 一人で外に出るのは危険だ、と一瞬そう思いはしたが、それはすぐに霧の立ち込めた心の奥へと沈み込んでしまった。
 ルルウはゆらりとベッドから立ち上がった。


 アガサがドアを細く開けて、ホールの様子を窺った。
 誰もいない。人が起きている気配もない。
 洗面所に入ると、ドアは半分開けたままにしておいた。
 化粧台に向かい、鏡を覗き込む。
 これが本当の自分の顔なのかと思えるほど荒んで見えた。
 事件のことはもちろんだが、ゆうべ自分が演じた醜態を思い出すと、ため息は一度では済まなかった。
 いつも美しく、そして凛々しくありたい、と彼女は常々に思っていた。いつも、どんな時でも、どんな場所でも、だ。自分はそれができる女性であり、そうあることが自分の誇りなのだと、ずっと思い続けてきた。
 (お化粧はもっと明るめにしなきゃ。口紅も今日はローズじゃなくって赤に替えよう)

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 今日の十角館の殺人はどうかな?


 「あれは、千織が生まれた年に植えたものなんだ」
 そう言った紅次郎の声は、かすかに震えていた。
 「あの藤の木を?ははあ、そうか」と独り言ちた。なんのことが良く呑み込めずにいる江南を見て、
 「源氏物語だよ、コナン君。そうなんだろう、紅さん」
 縁側に立って紅次郎に向かって、島田は言った。
 「父の妻である藤壺を深く恋い慕っていた光源氏は、長い年月の後、彼女と一夜だけの契りのを結んだ。ところが、そのたった一夜で藤壺は身籠ってしまい、以降二人は、夫を父を、裏切り欺き続けることになった。
 紅次郎は兄の妻、和枝を、その藤壺に見立てたのだろいう話だろうか。
 罪の子、千織の誕生。それゆえにより近く、同時により遠くなってしまった恋人を偲ぶ心が、彼にあの藤の木を植えさせた。藤壺は一生涯、自分と源氏の犯した罪を忘れず、みずからを消そうともしなかった。紅次郎の恋人もまた、そんな藤壺と同じように・・・と、そういう話なのか」
 島田は静かにソファから立ち上がり、紅次郎の背に歩み寄った。
 「青司氏は気づいていたんだね、そのことに」
 「いや、兄はたぶん、疑っていただけだと思う。半ば疑い、半ば必死になってそれを否定しようとしていたんだと、そう思う」
 庭のほうを向いたまま、紅次郎は答えた。
 「兄は優れた才能の持ち主だったが、人間的にはどこか欠落したところのある男だった。彼は義姉を強く愛していたが、それは何と言うか、狂おしいまでの独占欲に塗り固められた、ひたすら求めるだけのいびつの愛情だったんじゃないか。
 おそらく兄は、自分でもよく分かっていたに違いない。彼女にとって自分が、決して良き伴侶ではないことを自覚していた。だから彼は常に不安を感じ、義姉を疑い続けていた。千織についてはきっと、恐れも似た感情を抱いてのだと思う。しかし一方では、千織だけは自分の子である信じようとする、信じたい気持ちが半分、この半分が20年の間、かろうじて彼が妻との絆を信じ、心のバランスを保つ拠り所になっていた。
 なのに、その千織が死んでしまったのさ。二人を繋ぐ唯一の絆だと、恐れつつも信じようとしていた娘の突然の死によって、兄の疑心の真っただ中に放り出された。妻は自分を愛していない、しかもその心は外に-自分の弟のもとにあるのではないか、さんざん悩み、苦しみ、そして狂い、とうとう兄は、彼女をみずからの手で殺してしまったんだ」
 紅次郎は背を向けたまま微動だにせず、若葉を付け始めた藤棚を凝視し続けていた。
 「角島の事件は、あれは、兄の企てた無理心中だった」
 「無理心中?」
 「そうだよ。あの日、9月19日の午後、私は確かに、島田、お前の言う通り、兄から送られてきた小包を受け取った。中には血まみれの左手がビニール袋に密封されて入っていた。その手の、薬指に嵌っていた指輪に見覚えがあった。
 わたしは青屋敷に電話をかけた。待ちかねていたばかりに兄が出たよ。泣き声とも笑い声ともつかぬ声で、彼はこんなふうに言った。和枝は永遠に自分のものだ。北村夫妻も吉川も死んでもらうことにした。二人の旅立ちへのはなむけだ、とね。
 私が何を言っても耳を貸さず、自分たちはいよいよ当たらな段階を目指すだの、大きなる闇の祝福がどうだのこうだの、送ったプレゼントは大切に扱えだの、わけのわからないことをひとしきりまくしたててね、一方的に電話を切ってしまった。
 兄はだから、決して生きちゃあいない。物理的にいくらその可能性があったとしても、心理的に絶対にありえない。彼はね、義姉を殺したから死んだんじゃない。自分がこれ以上、今のままの状態で生きてはいられないから、彼女を一緒に連れて行ったんだ」
 「紅さん、もう一つだけ聞きたいんだが、いいかな」
 重い沈黙を島田が破った。
 「受け取った和枝さんの手首はどうした、今どこにあるんだい」
 紅次郎は何も答えようとしない。
 「ねえ、紅さ・・・」
 「分かってる。お前はただ、本当のことを知りたがっているだけだ。警察なんぞに知らせる気はないからって言うんだろう。わかってるよ、島田」
 そして紅次郎は、庭の藤棚を再び差し示した。
 「あそこだよ。あの木の下で、彼女は左手は眠っている」


 「お前の言った通りだと思うよ、守須」
 江南は何杯目かの水割りを飲み干した。
 「島田さんには失礼なけど、聞いちゃいけないことを聞いてしまったなってね、やっぱりそういう気がする。こんなの、気持ちのいいもんじゃないな」
 「中村青司は生きてはいない、と紅次郎氏は断言した。それは真実なんだろうと俺は思う」
 「吉川誠一の行方についてはどう考えるんだい」
 自問の意味も込めて、守須は問うた。
 「島田さんもその件が引っ掛かってるみたいだけどな、死体が見つからない以上、やはり海に落ちて潮に流されるかどうかしたんだろ」
 そう答えて江南は、壁に凭れて座った島田のほうは横目で窺った。浸りの会話を聞いてか聞かずか、島田はグラスを片手に、書棚から抜き出した本を読んでいる。
 「とにかく探偵の真似事はもうおしまいだ。来週の火曜に連中が帰ってきたら、怪文書の仕掛人だ誰なのかわかるんじゃないかな」

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 今日の十角館の殺人はどうかな?


 江南はまだ帰ってきていないらしい。
 午後10時10分、アパートの入り口近くに乗って来たバイクを止めて置いて、守須恭一
は道路を挟んだ向かいのコーヒーショップに入って、道に面した窓際の席に座った。
 注文したコーヒーをブラックのまま啜りながら、この1杯で戻ってこなければ帰ろう、と思った。
 そもそも江南の好奇心に火を点けたのは、あの死者からの手紙だった。時期を同じくして研究会の連中があの島へ行っていると分かれば、もうじっとしていられなって当然だ。わざわざ別府まで中村紅次郎を訪ねて行ったり、自分に相談を持ち掛けてきたり。けれども普通なら、その辺で熱の冷めてしまうのが江南という男の性格なのだ。ところが・・・
 島田潔の顔が頭に浮かぶ。
 単なる物好きではない。かなりの切れ者だと思う。だが、存外に無神経は詮索好きで、みずからそれを良しとしているふうな彼の言動には、どうしても反感を覚えざるをえなかった。
 吉川誠一の妻を訪ねてみてはどうか、と自分が言い出したことについては、今更ながら後悔するしかなかった。あの時はどうかしていたのだ。ついあんな提案をしてしまった。いきなり見も知らぬ人間の来訪を受け、殺人犯の汚名を着せられた行方不明の夫に関したあれこれ尋ねられた吉川政子の心中は、いったいどんなものだったろうか。
 二人の報告を聞いて守須自身が提示した中村青司生存説だったが、現実問題としては青司が生きてることなどあるはずない。あれはあくまでも、ミステリフリークの探偵ゲームに終止符を打つための、一つの仮説にすぎなかったのである。
 ところが島田は、角島事件の動機として和枝夫人と紅次郎との関係に注目しはじめ、とうとう千織は紅次郎の娘ではないかと言い出した。しかもそのことを、当の紅次郎について聞いて確かめてみようなどと・・・
 30分ほど経って、そろそろ出ようかと思い始めた時、江南のアパートの前に車が止まった。赤いファミリアである。降りてきた人影を見て、守須は席を立った。
 「江南」
 店から出て声をかけると、江南は「よう」と手を振って、
 「どこかで見たバイクだと思ったんだ」
 路肩に止めてある、ところどころ泥で汚れたバイク-ヤマハXT250-を見やった。
 「わざわざ訪ねてきたのか」
 「いや、通りがかりだよ」と、守須は腕にぶらさげたナップザックを開いてみせ、それからバイクのリアキャリアにくくりつけてあるキャンパスホルダーを顎で示した。
 「今日も国東に行ってきたんだ。その帰りさ。現地行くまでは明日で終わりかな。完成したら、見に来ておくれ」
 「やあ、守須君」
 運転席から降りてきた島田が、守須の姿を見て屈託なく笑いかけてきた。守須は思わず声を硬くして、
 「こんばんは、今日はどちらへ」
 「ああ、ちょっと紅・・・いや、別府のほうへドライブにね」
 江南に招かれて、島田と守須は部屋に入った。敷きっぱなしの布団をぱたぱたと片付けると、江南は折り畳み式の小テーブルを出し、酒の用意を始めた。
 島田は部屋に上がるなり書棚の前に立ち、ぎっしりと並んだ本の青表紙を眺めていた。グラスに氷を入れる江南の手元を見つめながら、守須は聞いた。
 「例の件は?どうなってるんだい?」
 江南はいやに浮かない声で答えた。
 「昨日はS町まで行ったきたんだ。海辺から角島から見て、あとは怪しげな幽霊譚をいくつか聞き込んできたんだけどな」
 「幽霊?」
 「島に青司の幽霊が出るとかでないとかね、ありふれた噂話さ」
 「ふうん、それで今日は?ドライブしてきただけじゃないんだろう。
 結局やっぱり、紅次郎氏のところへ?」
 「そうだよ、忠告を聞かなくて悪かった」
 水割りを作る手を止めて、江南は少し項垂れた。守須は短くため息をつくと、江南は顔を斜めから覗き込むように身を傾けて、
 「で、結果は?」
 「去年の事件についてはほぼ分かったんだ。紅次郎さんが話してくれた」
 「事件の真相がわかったって言うのか」
 守須が驚いて聞きなおすと、江南は「ああ」と頷いてグラスの水割りを呷った。
 「結局のところはね、あの事件は青司が図った無理心中だったんだ」

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 今日の十角館の殺人はどうかな?


 「本当に僕が一緒でもいいんですか」
 O市から亀川へ向かう途中、江南は念を押すように尋ねた。ハンドルを握る島田は、前方を見たまま幾度もうなづき、
 「構わないさ。千織さんと君は知り合いだったんだし、君は今回の怪文書の、いわば被害者でもあるわけなんだからね。第一君だって、ここまで来て置いていけぼりにされたんじゃあつまらんだろう」
 「そりゃあそうですけど」
 一昨日の守須恭一の忠告が、心に引っ掛かって離れないのだった。
 自分たちの単成す好奇心から、そこまで他人のプライバシーに立ち入ってもいいものなのかどうか。
 江南や守須が思うほど、自分と紅次郎は水臭い間柄ではないから、と島田は言う。守須の考え方や態度は少しストイックすぎるのではないか、とも。
 「そんなに気がひけるんだったらコナン君、この3日間で僕たちが、すっかり親友同士になってしまったことにしようじゃないか。で、僕が嫌がる君を無理やり引っ張ってきたと。どうだい?どれでいいだろう?」
 島田が真顔で言うのを聞きながら、つくづく面白い人だな、と江南は思う。
 ただ単に好奇心が旺盛なだけではない。自分などよりもずっと鋭い観察力や洞察力を、この人は確かに持っていると思う。一昨日、守須が言い出した中村青司生存説にしても、そのくらいのことはとっくに考え付いて検討済み、というふうだった。
 守須と島田の決定的な相違点は、守須がある意味で妙に保守的な現実主義者なのに対して、島田はまるで夢見る少年のような、ある種にロマンティストだということだろう。興味を抱いた現実の事件をめっぐって、奔放を想像力を働かせてお気に入りの可能性を導き出すと、あとはそれを一つの夢のようなものにまで昇華させてしまう。
 もしかすると島田にとってみれば、そうしてできあがった夢が現実の真相を一致するかどうかは二の次、三の次の問題にすぎないのかもしれない。
 紅次郎の家に到着したのは、午後3時を過ぎた頃だった。
 「今日はいるはずなんだがなあ」
 門の前で立ち止まり、島田がつぶやいた。
 「勤め先の高校はとうに春休みだし、登校日に当たったとしても、土曜だからもう帰ってるはずだし。暇でもっめったに外を出歩く人じゃないし」
 「電話で知らせておかなかったんですか」
 江南が聞くと、島田は「ああ、うん」と頷いて、
 「紅さんは、いきなり訪ねてこられるのが好きな人でね。もちろんまあ、相手にもよるんだろうけどね」
 そう言って、島田は片目をつぶって笑った。
 呼び鈴を鳴らすと、今日はすぐに返事があった。
 「おや、島田か。それに江南君、だったっけね」
 江南の姿を見てもとりたて訝しむ様子はなく、紅次郎は、二人を、先日を同じ奥の屋敷に通した。
 「ちょっと聞きたいことがあって来たんだ」
 島田は揺り椅子を前に傾けて、膝の上に両肘をついた。
 「その前に紅さん、一昨日はどうしてたの」
 「一昨日?」
 紅次郎は不思議そうに島田を見やり、
 「このところ毎日、家にはいるが、学校は休みだから」
 「一昨日、27日の夜、ここに酔ったんだけど、呼んでも出てこなかったからね」
 「そいつは悪いことをしたな。締め切り間近の論文があって、この2、3日は電話も来客も居留守を決め込んでいたんだ」
 紅茶のカップを二人に渡して、紅次郎は向かいのソファに腰を下ろした。
 「聞きたいことというのは?江南君が一緒のところを見ると、まだあの、兄の名を騙った悪戯の手紙に関わっているのかな」
 「そうだよ。しかし、今日来たのはちょっと違うんだ」
 島田は一呼吸おいてから、「実はね」と続けた。
 「亡くなった千織さんについて少々、立ち入った話が聞きたいんだよ」
 カップを口に運ぶ紅次郎の手が、ぴたりと止まった。
 「千織について?」
 「嫌な質問をするぜ、紅さん。許せないと思ったら、殴ってもいい」
 そして島田は、単刀直入に切り出した。
 「千織さんは、ちょっとして紅さんの娘だったんじゃないのかね」
 「馬鹿な。いきなり何を言い出すんだ」
 紅次郎は即座にそう答えたが、江南には彼の顔から一瞬、血の気が引いたほうに見えた。
 「違うのかい」
 「当り前だ」
 紅次郎は憮然と腕組みをしている。その顔をじっと見据えながら、島田は続けた。
 「無礼は承知の上だ。起こるのも当然だと思う。けれどもね、紅さん、僕はどうしても確かめておきたいんだ」
 「戯言もたいがいにしてくれ。何を根拠にそんなことを言う」
 「確かな証拠なんてないさ。ただ、いろいろな状況が僕にそう囁きかけてくるんだ。
 一昨日、コナン君と安心院に行ってきた。行方不明になっている吉川誠一の細君と会うためにね」
 「吉川の奥さんと?何でまた」
 「例の怪文書に触発されて、去年の角島の事件について少し、調べてみたいと思ったのさ。そうして僕らが辿り着いたのは、中村青司氏は生きている、彼があの事件の犯人だったのだ、という結論だった」
 「馬鹿を言うな。兄は死んでいる。私は死体を見た」
 「真っ黒焦げの死体を、だろ」
 「それは・・・」
 「あれは吉川誠一の死体だった。青司氏がすべての犯人で、和枝さんと北村夫妻を殺したあと、吉川を身代わりに焼死させて自分はまんまと生き延びた、というわけさ」
 「相変わらず想像力のたくましいことだな。そのたくましい想像力が、私と義姉とを結びつけたわけか」
 「まあね」
 島田は臆する気配もなく言葉を接いだ。
 「青司氏と犯人だとすると、彼はなぜ、あんな事件を起こすまでの精神状態に追い詰められてしまったのか。いつだったか、紅さんはこう言ってったっけねえ。兄貴は和枝さんを熱愛し続けているが、あの執着ぶりは尋常じゃない、と。彼が若くしてあんな島に引きこもってしまったのも、元はと言うば、和枝さんを自分だけのそばに置きたかったからだ。彼女を島に閉じ込めてしまいたかったからだ、ってね。そんなにも愛していた妻を自らの手で殺してたんだとすると、動機として考えられるのは普通、嫉妬しかない」
 「何だってそれを、私と義姉の関係に短絡させる必要がある」
 「吉川の細君から聞いたんだが、青司氏は自分の娘のことを、あまり可愛く思っていなかったらしいね。ところが一方、彼は和枝さんを熱愛していたという事実がある。ならば、二人の間に生まれた子供、しかも女の子の千織さんのことが可愛くないはずがあり。これはつまり、青司氏が、少なくとも娘の父親が自分かどうかを疑っていた証拠じゃないだろうか」
 「兄は、変わった人間だったんだ」
 「変わってはいても、妻を愛する人間ではあった。その妻が産んだ自分の娘を愛せなかったというところには、やっぱり何かあると思わざるをえない」
 きっぱりと言って、島田は続ける。
 「島に閉じ込められていた和枝夫人。それでも彼女との接触が可能であった若い男、千織さんの誕生と前後して悪化した兄弟仲・・・」
 「話にならんな。もう充分だろう、島田。私は否定するだけだよ。そんな事実は断じてない」
 腹立たしげに行って、紅次郎は鼈甲縁の眼鏡を外しが、膝の上に置いた手が、かすかに震えているのが分かった。
 「だったら紅さん、もう一つ聞いてみようか」
 島田が言った。
 「去年の9月18日、青屋敷が燃えるの前の日の出来事だ。日頃滅多に酒を飲まない紅さんが、あの夜突然僕に電話してきた。外へ飲みに行かないかってね。二人で何軒がはしごして、紅さんはすっかり酔い潰れてしまった。
 そして酔いつぶれた挙句、しまいにあなたは泣き出してしまった。僕がこの家まで送ってきて、二人ともここのソファで眠ったんだが、そのとき紅さんは泣きながら、譫言みたいにこう繰り返していたんだ。『和枝、許してくれ。私を許してくれ』って何度もね」
 「そんな・・・」
 紅次郎の顔色が目に見えて変わった。島田はさらに続けて、
 「あの時は深く考えてもみなかったさ。僕もかなり酔ってたしね」
 島田は大きく一つ息をついた。
 「今改めて考えるに、9月19日の夜の時点で、紅さんはすでに角島の事件の発生を知っていた、そうだろう?」

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