チラシの裏~弐位のゲーム日記
社会人ゲーマーの弐位のゲームと仕事とブログペットのことをつづった日記

 今日の十角館の殺人はどうかな?


 食事の間、話をする者は誰一人いなかった。
 「あとはいいからアガサ、もうお休み」
 やんわりとポウが声をかけた。
 「眠れないなら、薬がある」
 とたん、彼女の目に警戒の色が入った。
 「薬?いやよ」
 「分かった。じゃあこうしよう」
 ポウは椅子の背に掛けてあった自分の布鞄を開け、小さな薬瓶を取り出した。そして、その中から、白い錠剤を2粒、開いた掌の上に落とす。この2錠を2錠とも半分に割ってよく示したうえで、半錠のかけらをそれぞれ一つずつ拾ってアガサの手に持たせた。
 「俺はこっちの2つを、君の目の前で飲む」
 ポウは髭面に無骨な笑みを浮かべ、自分の手に残った錠剤を飲み下した。
 「ほら、大丈夫だろう。さあ、アガサ」
 「眠れないの、どうしても」
 「無理もない」
 「今朝だって、カーのあの声が耳について離れなくなって、やっとうとうとしかけたら、隣のカーの部屋から、何か変な音が聞こえたような気がしたり」
 「そいつを飲めば、今夜はぐっすり眠れるから」
 アガサはようやく薬を口に含み、目を閉じて飲み込んだ。
 「さ、おやすみアガサ。戸締りだけはきちんとしてな」
 「ええ、ありがとう、ポウ」
 アガサが自分の部屋に消えると、4人はそれぞれ溜息に似たものを落とした。
 ほっそりとした指の間に煙草を挟んで振りながら、エラリイが軽く笑った。
 「まったく、たまらないね。あのアガサ女史でさえああだ。明日になったら、僕らの中からも患者が出るのかな」
 「よせ、エラリイ、お前は茶化しすぎる」
 エラリイは肩をすくめた。
 「僕だってね、今日は殺されかけたんだぜ」
 「あれはお前の一人芝居だった、という説はどうだ」
 「とするとだ、当然ながらアガサのあれが演技ではないとも限らないわけだね」
 「内部に犯人がいるのなら、誰に対しても容疑は均等だろう」
 爪を噛みながら、ヴァンが言った。
 「自分が犯人じゃないと確信できるのは自分だけだよ。つまるところ、自分の身は自分で守るしかないんだ」
 「ああ、もう、何でこんなことになってしまったんです」
 眼鏡をはずしてテーブルに放り出し、ルルウが頭を抱え込んだ。
 「だいたい犯人は何だってこんな狂気じみたこと、始めたんだろう。僕らの中の一人にせよ、中村青司にせよ、動機はいったいどこにあるんですか」
 「青司=犯人説には反対だよ、僕は」
 苛立たし気にヴァンが言った。
 「中村青司が生きているって、それはエラリイの想像だろう。彼にそれが事実だったとしても、ルルウの言う通り、何で彼が僕らを殺すんだい。冗談じゃないよ」
 (何だったんだろう)
 ルルウは心中で自問し続ける。
 新しい記憶の方は、この島へ来てからのものに間違いない。何かをどこかで無意識に見ていて、しかもそれが非常に重要なことであるような・・・
 起きた時からの頭痛が、まだじくじくと続いている。
 「あのう、僕にも薬、もらえますか」
 「ああ、いいとも。まだ7時過ぎだが、もう寝るのか」
 「ええ、ずっと頭が痛くて」
 「ポウ、良かったら僕にももらえるかい」
 そろそろ椅子から腰をこかせながら、ヴァンが言った。
 「ああ、1錠でいいぞ。よく効く薬だから。エラリイは?」
 「必要ないさ。自力で眠れる」

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 今日の十角館の殺人はどうかな?


 「塩なら、さっき君がそっちへ置いたよ」
 スープの味見をして、小皿を持ったままきょろきょろしているアガサに、ヴァンが遠慮がちに言った。
 「よく見ていらっしゃいますこと」
 アガサは振り返って、丸く目を開いた。
 「看守としては合格ね」
 十角館の厨房である。
 ホールから持ってきたランプの薄明かりの中、食事の支度するアガサと、その傍らでじっと彼女の動きを見守るヴァン。他の3人はホールにいて、開け放された両開きの扉から、ちらちらとこちらの様子を伺っている。
 「いい加減にしてよ」
 スカーフでまとめあげた髪に両手を当てて、彼女は金切り声を上げた。
 「あたしの作る物がそんなに不安なんだったら、缶詰でもなんでも勝手に食べたらいいでしょ」
 「アガサ、そんなつもりじゃ」
 「もうたくさん!」
 アガサは小皿を取り上げ、ヴァンめがけて投げつけた。皿はヴァンの腕を掠め、後ろの冷蔵庫に当たって割れた。その派手な音に驚いて、ホールの3人がばたばたと駆け込んでくる。
 両手を握り締め、左右に激しく身をよじりながら、アガサは大声で喚きたてた。
 「何よ、見張りなんか立てて。あたしは絶対犯人じゃないんだから!」
 「アガサ!」
 エラリイとポウが異口同音に叫ぶ。
 「こんな見張りを立てたって、もし料理を食べて誰かが死んだら、どうせまたあたしのせいだって話になるんじゃないの」
 「落ち着け、アガサ」
 ポウが強い声で言い、彼女に向かって一歩踏み出した。
 「誰もそんなことをするつもりはない」
 「近寄らないで」
 アガサは眦を決したまま、じりじりと後辞さった。
 「わかったわ。あんたたち、みんなぐるなんでしょう。4人で共謀して、オルツィーとカーを殺したのね。今度はあたしの番?
 そんなになってほしけりゃ、あたしが本当に犯人になってやるわ。そうよ。『殺人犯人』になってしまえば、被害者の役にまわらなくなっても済むんだから。あたしが犯人よ」
 完全に平静を失い、手足をむやみに振り回して暴れるアガサを、4人がかりでやっと押さえつける。そして彼らは、引きずるようにして彼女をホールへ連れ出し、ムリヤリ椅子に座らせた。
 「もう、嫌」
 アガサはぐったりと肩を落とし、虚ろな視線を宙にさまよわせた。
 「家に帰して。お願いだから。あたし、帰るわ」
 「アガサ」
 「もう帰るわ。泳いで帰るから」
 よほど経ってから、彼女は不意に顔を上げた。そして、抑揚のない声で、
 「食事の用意、しなくっちゃ」
 「あとは誰かがするから、君は休んでるんだ」
 「嫌よ」とアガサが、ポウの手を振り払った。

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 今日の十角館の殺人はどうかな?


 エラリイの右足を手当てしあんがら、ポウは言った。
 「軽い捻挫と打ち身、擦り傷だけだ。まったく運のいい奴だな。下手をすると、命に関わっていたかもしれんぞ」
 エラリイはくっと唇を噛んだ。
 「軽率だったね。反省しよう。まんまと彼の仕掛けた罠に引っ掛かってしまった」
 5人は十角館のホールに戻ってきていた。
 壁にもたれかかり床に足を投げ出して、ポウの手当てを受けるエラリイ。他の3人は椅子にかけもせず、落ち着かぬ様子でそれを見守っている。
 「ホールの扉は内側から紐でゆわえておいたほうがいい」
 「でもエラリイ、あたし信じられないわ」
 青屋敷跡からの帰り道で、エラリイから中村青司=犯人説を聞かされ、アガサは混乱しているようだった。
 「中村青司が生きているなんて、そんなこと、本当にあるの?」
 「さっきの地下室の状態がその証拠だろう。少なくとも、誰かが最近あそこに潜んでいたことに間違いない。そいつは、そのうち僕らがあの地下室の存在に気づいて、足を踏み入れるだろうと予測した。だから階段にあんな罠を仕掛けておいたんだ。運が悪けりゃ、僕が今頃『第三の被害者』になっていたのかもしれない」
 「よし、いいぞ、エラリイ」
 包帯を巻き終えたポウが、ぽんとエラリイの膝を叩いた。
 「ちょっと確かめておきたいことがあるんだ」
 ポウは足早にホールを横切り、玄関へ続く扉の向こうに消えてしまった。が、ものの1分もしないうちに戻っていて、
 「やはり思ったとおりだった。すまんな」と浮かない声でエラリイに言った。
 「さっきのテグスだが、あれはどうやら俺の持ち物だったらしい」
 「ポウの?どうして」
 「釣り糸さ。来た日から、釣りの道具箱は玄関ホールに置いておいたんだ。その中から、いちばん太い糸が一巻きなくなっている」
 エラリイは左の膝を立てて、両手で抱え込んだ。
 「ここの玄関は鍵が掛からない。従って、青司だろうと誰だろうと出入りは自由。釣り糸を盗むなどわけもないってことさ」
 「しかしな、エラリイ」
 ポウは椅子に腰かけ、煙草に火を点けた。
 「青司が生きている。そして犯人であると即断するのは、どうだろうか」
 「反対かい」
 「その可能性が皆無だととは言わんが、にしても、犯人は外部の者だと現時点で決めつけてしまうのはどうかと思う」
 壁に凭れかかったまま、エラリイはポウの髭面を見上げた。
 「ポウ先生は、内部に犯人を作りたいと見えるね」
 「作りたいなどとは思わん。ただ、その疑いのほうがやはり強いと考える。だからエラリイ、俺はここで、各自の部屋を全員で調べてみることを提案したい」
 「所持品検査か」
 「犯人はもう一組の予告プレートと切り取ったオルツィの左手、何らかの刃物、それから、もしかすると毒薬の残りを持っているはずだからな」
 「もっともな意見ではあるね。けれどもポウ、もしも君が犯人だったらそんな、見つかるとまずいような代物を自分の部屋に置いておくかい。隠そうと思えば、他にいくらでも安全な場所があるだろうに」
 「しかしだな、一応・・・・」
 「ねえ、ポウ」とヴァンが言った。
 「そんなことをしたら、むしろ危険なんじゃないかな。つまりね、もしもこの5人の中に犯人がいるんだとしたら、そいつも一緒に部屋をまわることになるだろう。犯人が堂々と他人の部屋に入れる機会を作ってしまうんだよ」
 「ヴァンの言う通りだわ」
 アガサが意見を述べた。
 「あたし、自分の部屋には誰にも入ってほしくない。犯人がこっそり、プレートや何かを他人の部屋に隠すことだってできるのよ。何か危なし仕掛けをされるかもしれないし」
 「ルルウはどう思う?」
 ポウがしかめっ面で問うと、
 「それよりも、何だか僕、この十角館自体が嫌で。このあいだも誰かが言ってましたね。壁を見てると目がおかしくなりそうだって。目だけじゃない。何だか頭まで変になっちゃいそうで・・・」

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 今日の十角館の殺人はどうかな?


 遅い昼食を済ませると、5人はそろって青屋敷の焼け跡へ向かった。
 建物があったと思われる100坪ほどの地面は、灰と瓦礫で黒く覆いつくされている。
 J崎が見える屋敷跡西側の断崖は、それほど高くない。敷地の周りの待つが途切れていて短い小道を作り、崖下の岩場に降りるための細いコンクリートの階段へと続いている。
 彼らはその崖の上に立ち、島に近づく船の姿を探し始めたのだが、そこから離れて独り灰と瓦礫の中を歩き回っている者がいた。エラリイである。
 「何やってるんだい、エラリイ」
 大声でヴァンが問うた。エラリイは顔を上げて笑って見せ、
 「探し物さ。おや」
 呟いてエラリイは、真っ黒に汚れた一枚の板切れに手をかけた。
 焼け落ちた壁の一部らしく、ところどころに青いタイルが残っている。思い切って力を込めると、意外に軽く持ち上げることができた。
 「あったぞ」とエラリイは歓声を上げた。
 そこには、四角い穴が黒々と口を開いていた。コンクリートの狭い階段が闇に向かって延びている。
 エラリイは持ち上げた板を反対側に押し倒した。用意してきた懐中電灯を上着のポケットから取り出すのももどかしく、穴に足を踏み入れる。
 「気を付けろよ」
 ポウが心配げに声をかける。
 「分かってるさ。大丈・・・」
 返事が、ふっと途切れた。と同時に、エラリイの身体がぐらりと傾く。「うわっ」という短い悲鳴とともに、そのまま彼は闇の中に倒れ込み、吸い込まれるようにして消えてしまった。
 「エラリイ!」
 「エラリイ?」
 「エラリイさん?」
 「大丈夫か、エラリイ」
 4人が口々に叫んだ。
 ヴァンが飛び出して、エラリイのあとを追おうとする。
 「待て、ヴァン。飛び込むのは危険だ」
 ポウが軽く制した。
 「でも、ポウ」
 「俺が先に立つ」
 ポウはジャケットのポケットを探り、小型のペンライトを取り出した。注意深く穴の中を照らしながら、階段に足を下ろす。
 「エラリイ」
 呼びかけるが、答えはない。窮屈そうに上体を屈め、2段ほど進む。そこで彼は、はっと立ち止まった。
 「こいつは・・・テグスが張ってあるぞ。これに足を取られたんだな、エラリイの奴」
 ちょうど大人の向う脛くらいの高さだった。左右の壁を這う何かのパイブの間に、よほど目を凝らしてみなければ気づくまい、細くて丈夫な糸が張り渡されているのである。
 ポウは慎重にそれを跨ぎ越すと、やや動きを進めた。
 「ヴァン、ルルウ、来てくれ。テグスに気をつけてな」
 階段を降り切ったところに、エラリイは倒れていた。
 「おいエラリイ、大丈夫が」
 コンクリートの床に這いつくばったまま、エラリイは弱弱しい声で「大丈夫だ」と答えた。が、すぐに「ううぅ」と呻いて、右の足首を抱え込む。
 「足をくじいたらしい」
 まもなくヴァンとルルウが降りてきた。
 「手を貸してくれ」と2人に銘じて、ポウがエラリイの腕を取る。
 のろのろと身を起こしながら、エラリイが言った。
 「僕は大丈夫だから、この、地下室の様子を検めてくれないか」
 ルルウがポウから懐中電灯を受け取り、ぐるりと周囲を照らした。
 地下室は畳敷きにして10数畳分の広さがあった。四方の壁も天井も剥き出しのコンクリートで、その上をパイプが何本も走っている。
 4人が立つ階段の昇り口付近から、半径2メートルほdの円弧を描いた部分、そこには他の場所に散乱しているようながらくたが一つも落ちていない。しかも妙な事に、積もっているはずの灰や埃までが、その円弧の内側にはほとんど見られないのである。
 「どうだい。あまりに不自然だろう。まるで掃き清めた跡みたいじゃないか」
 エラリイは蒼ざめた顔に、場違いとも思える微笑みを浮かべた。
 「誰かがいたんだよ、ここに」

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 今日の十角館の殺人はどうかな?


 ルルウが部屋から出ると、ホールでエラリイとヴァンが喋っている。アガサとポウもすでに起きていて、厨房のほうにいる。
 「おはよう、ルルウ。無事で何よりだ」
 冗談といったふうでもなくそう言うと、エラリイはルルウの斜め背後を差した。
 「え?」
 振り返ってみて、ルルウは思わず丸い眼鏡の縁に指を掛けた。


 『第二の被害者』


 カーの部屋のドアである。目の高さあたり、オルツィの時と同じ位置に、カーの名札を隠して例のプレートが貼り付けられているのだった。
 「何とも律儀な犯人じゃないか。ここまでやってくれると嬉しくなるね」
 ルルウは後辞さるようにしてその場を離れ、長い足を組んで椅子に座っているエラリイを見やった。
 「残りのプレートは、あのまま台所の引き出しに入れて置いたんでしたよね」
 エラリイは、持ちだしてきてあったプレートをテーブルの上でまとめて、ルルウの方へ滑らせた。数えてみるとプレートは6枚あった。
 「見ての通りさ。犯人は同じものを、たぶんもう一組用意しているんだ。
 それから、これはアガサには内緒だが-」
 エラリイは声を低くして、ルルウを手招きした。
 「下手に知らせて、取り乱されちゃ困ると思ってね。彼女が起きてくるよりも前の出来事だったから、ヴァンとポウの3人で相談して、隠しておくことに決めたんだ。
 発見したのはポウだ。昼すぎに起きて、顔を洗いにいったついでに、何となく気になって奥の浴室を覗いてみたらしい。
 すると、バスダブの中に血まみれの手首が落ちていたのさ」
 「何ですってぇ」
 ルルウは口に手を当てて、
 「そ、それは、オルツィの?」
 「カーの左手首から先が、切り取られてそこに置いてあったんだ。
 今朝、僕らが眠り込んだ頃を見計らって、犯人がやったんだろう。カーの部屋には鍵を掛けておかなかったからな。忍び込んで、死体の手首を切り落とすことは誰にでもできた。時間さえかければ、アガサにだって可能な作業だろう」
 「その手首は今、どこに」
 「カーのベッドに戻しておいたよ。そのまま放っておくわけにもいかないからね」
 ルルウはうずくこめかみを押さえた。
 「また見立てですか」
 まもなくアガサとポウが厨房から出てきて、食卓を整え始めた。スパゲッティ、チーズ入りのパンプディング、ポテトサラダにスープ。
 「ルルウ、ちゃんとポウが見張っててくれてましたからね、安心して召し上がれ。まさか、ポウとあたしが共犯だなんて言わないでしょ」
 アガサが皮肉たっぷりに言った。

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 今日の十角館の殺人はどうかな?


 結局、江南と島田の二人は、S町までやってきていた。
 中村青司が実は生きているのではないか。昨日彼らが到達したその解答を支持するような、何からかの手掛かりを探すことが、今日この地を訪れた目的である。問題の角島を一度見てみたいという思いもあった。
 しかし、半日かけて付近の住人や漁師に話を聞いてまわった結果、集まったのは月並みな幽霊譚だけだった。実質的に推理を進展させるようなものは何も掴めぬまま、港から少し離れたこの場所で、二人は点かれた体を休めていた。
 江南は煙草をくわえると、その場に腰を下ろし、足を伸ばした。
 間近で揺れる波のざわめきに耳を傾けながら、ブルージーンにオリーブグリーンのブルゾンを着た島田の背中を見やる。子供に釣り竿を持たせてもらい、無邪気な声を上げているその様子は、とても30代後半の男の姿には見えない。
 島田と守須、二人は対照的な性格だといえる。島田を陽とすれば、守須は陰。どちらかと言うと生真面目で内向的な守須の目には、島田のあっけらかんとした、己の興味や関心にあまりにも忠実な言動が、軽率な野次馬根性として映ったのだろう。島田は島田で、せっかくの楽しみに水を差す守須の良い子ぶりに、いくぶん鼻白んだふうだった。
 「そろそろ行きませんか、島田さん」
 やがて、江南は上から呼びかけた。
 「そうするか」
 島田は子供に竿を返し、手を振って別れを告げた。
 堤防沿いの道を降りると、二人は肩を並べて歩き出した。
 「結局、何もありませんでしたね」
 「おや、そうかい」
 島田はにやにやと目を細めながら、
 「幽霊の話を拾ったじゃないか」
 「あんなの、どこにでもある噂話ですよ」
 「いや、案外そういうところにこそ、真実ってやつは潜んでいるんじゃないかとぼくは思うがね」
 色黒の頑丈そうな若者が道端にいて、器用な手付きで網を繕っていた。また20歳前だろう。
 「角島の有形の正体は他ならぬ、死んだはずの中村青司だってことさ」
 「あのう」
 と、突然耳聞きなれない声がした。声の主は網を繕っていた若者だった。
 「あんたち、島へ行った大学生の知り合いかい」
 島田は若者の方へすたすたと歩み寄って行った。
 「君、彼らを知ってるの?」
 「あの人たちは、俺と親父とで島まで送ってったんだ。えらくはしゃいでいたよ。俺、あんな島のどこが楽しみなのか、さっぱりわからんけど」
 ぶっきらぼうな口ぶりではあったが、島田を見る目は人懐っこそうに光っている。
 「あんたたち、幽霊の話を調べているのかい」
 「ああ、うん。まあそんなとこだな。ねえ、君はその幽霊、見たことあるの」
 「ないよ。ありゃあ、ただの噂だ」
 「誰の幽霊だか知ってる?」
 「中村青司とかって奴だろ」
 「じゃあね、君はその中村青司が、角島で生きているって考えたことはないかい」
 若者は不思議そうに目をぱちくりさせて、
 「生きてるかってか。その人、死んだんじゃないの」
 「死んでないのかもしれないのさ」
 島田は大まじめな口調で、
 「例えば、離れの十角館に明かりが点いていたって話、あれは本当に青司が灯したのかもしれないね。青司の姿を見たっていうのも、幽霊だなんていうよりはさ、彼が実は生きていると考えるほうが、まだしも現実的じゃないか。島に近づいたモーターボートが沈んだっていうのもあったね。これは自分の姿を見られた青司が、釣り人を殺して沈めたのかもしれない」
 「あんた、面白い人だな」
 若者はおかしそうに笑った。
 「でも、ボードの話はぜんぜん違うよ。だって俺、あのモーターボードがひっくり返るとこ、見てたもの」
 「何?」
 「あの日は波が高くてね。俺、ちょうどそこに居合わせたもんだから、やめときなって止めたんだ。どうせあの島の辺りじゃ雑魚しか釣れないっていうのも教えてやったのに、聞かずに出て行ったんだ。そしたらこっちを出てすぐ、島へ近寄りもしないうちに、高波くらってあっという間さ。
 それにね、あんた『釣り人を殺して』とか言ってたけど、誰も死んじゃあいないよ。乗ってた人はすぐに助けられたんだ」
 傍らでやりとりを聞いてきた江南は、思わず吹き出してしまった。島田はつまらなそうに口をとがらせ、
 「しかしそれでもね、うん、青司は生きているんじゃないかと思うんだよ、僕は。モーターボートをどこかに隠していて、ときどきこっちへ買い出しにくるんじゃないかな」
 「さてねえ」と若者は首を傾けた。
 「無理な話だと思う?」
 「どうだかなあ。夜のうちにJ崎の裏側から上がるんなら、無理でもないか。けど、岸にモーターボートを繋いどいたら、いつか見つかっちまうだろ」
 「そこは何とか隠すのさ。とにかく海が時化てなければ、モーターボートでも十分に行き来できるわけだろう」
 「ああ、今ぐらいの気候だったら、エンジンさえ付いていりゃあそう難儀でもないよ」
 「ふんふん」
 満足げに鼻を鳴らすと、島田は勢いよく立ち上がった。
 「いやあ、どうもありがとう。うん、いいことを教えてもらった」
 若者に手を振ると、少し先の路上に止めてあった車に向かって、島田はさっそうと歩きだした。江南が慌てて後を追い、横に並ぶと
 「どうだい、コナン君」
 島田はにたりと笑って言った。
 「大した収穫じゃないか」
 いったい今の話が『大した』収穫なのかどうか、判定に迷うところだが、少なくとも、中村青司生存の可能性を否定するものではなかったと言える。
 (よりによって連中、問題の多い場所に乗り込んでいったもんだな。まあ、そうそう滅多なこともないだろうけど)

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 今日の十角館の殺人はどうかな?


 「けりをつけよう。僕は眠い」
 けだるそうに瞼を開き、エラリイが口を切った。
 「賛成だな」
 ワンテンポ遅れたポウの応答に、他の3人も我に返って身構えた。
 「俺に分かるのは、とにかく何か、毒物を使用されたらしいということだけだ。毒の種類ははっきりしない」
 「ある程度を見当をつけられないのかい」
 「そうだな」
 ポウや濃い眉の八の字に寄せた。
 「効果の速さからして、かなり毒性の強いものだ。呼吸困難と痙攣を起こしていたから、神経毒の可能性が高い。主な毒物の中でその手のやつと言えば、青酸カリ、ストリキニーネ、アトロピン、ニコチンやヒ素、亜ヒ酸でもありうる。ただ、アトロピンやニコチンだと散瞳が見られるはずなんだが、それはなかった。青酸化合物ならが、俗にアーモンド臭と呼ばれる独特な臭気があったはずだ。それもなかった。だから、たぶんストリキニーネ、あるいはヒ素、亜ヒ酸の類だと思う」
 テーブルの上には、先ほどの6個のカップが飲みかえのまま、まだ残っていた。ポウの説明を聞きながらじっと見つめていたアガサが、唐突にくすっと笑い声を漏らした。
 「この場合、犯人はあたししかしないって話になるわけね」
 「そうだね、アガサ」
 エラリイが淡々とそれを受けた。
 「え、やっぱり君なのかい」
 「あたしじゃないって言ったら、それで信じてもらえる?」
 「そりゃあ無理だ」
 エラリイはシャツの胸ポケットから自分のセーラムを取り出し、その吸い口をとんとんとテーブルで叩いて葉を詰めながら「まず、事実の確認から始めよう」と言った。
 「コーヒーを淹れてくれと言い出したのは、カー自身だったね。アガサが台所に立って、その間、他の者は全員ここにいた。湯を沸かし、コーヒーを淹れ、トレイにカップを載せてアガサが戻ってくるまで、だいたい15分くらいだったかな。アガサはテーブルにトレイを置いた。トレイの上にあったものは、正確に言うと、コーヒーカップが6つ、角砂糖の箱、パウダーミルクの瓶、それから1枚の皿にスプーンが7本。うち1本はミルク用というわけだ。そうだったね、アガサ」
 アガサは神妙に頷いた。
 「カップを取った順番はどうだったか」とエラリイは続けた。
 「最初に取ったのは僕だったね。その次は?」
 「僕です」とルルウが答えた。
 「カー先輩とほとんど同時でした」
 「たぶん次が俺だ」とポウ。
 「それからあたりが取って、ヴァンにトレイごと回したのよ。そうだったわね、ヴァン」
 「うん、確かに」
 「OK、確認しておこう。僕、ルルウとカー、ポウ、アガサ、ヴァンの順だね」
 エラリイは口の端に煙草をくわえ、火を点けた。
 「じゃあ考えてみようか、カーのカップに毒薬を入れるチャンスがあったのは誰か。まずは、やはりアガサだ」
 「あたしに毒入りのカップが当たったかもしれないのよ。それに、毒入りをカーが取るように仕向けることだって、できなかったはずでしょ」
 アガサは冷ややかな声で反論に出た。
 「アガサ、まず言っとかなきゃならないのは、犯人は別にカーだけを標的にしていたわけじゃないだろう、ってことだ。犯人の最終目的が僕達の皆殺しにあるとしてごらんよ、『第二の被害者』が誰であろうと一向に構わないわけさ」
 「たまたま貧乏くじを引いたのが、カーだったっていうわけ?」
 「そう考えるのが一番論理的だと思うな。カーの両隣は空いていただろう。彼がカップを選んでしまったあとで毒を入れることは、誰にもできなかったはずだ。とすると、やっぱり君しかいないんだよ」
 「待ってください、エラリイさん」と口を挟んだのはルルウである。
 「あのときアガサ先輩がコーヒーを淹れるのを、僕はずっと見てたんです。台所の扉は開けっ放しだったし、僕の席はちょうどその正面で、角度的にもアガサ先輩の手元がよく見える位置でした。カウンターも蝋燭が置いてありましたから。けれど何一つ、不審な動作はなかったんですよ。
 すみません、けど、だって、そうでしょう?今朝オルツィを殺した犯人がこの中にいて、ひょっとしてそれがアガサ先輩かもしれないんですよ。だから、夕食のクラッカーと缶詰とジュース、あれも恐る恐るだったんだ。僕に言わせれば、平気でいの一番に口をつけられるエラリイさんの方がどうかしてますよ」
 「なるほどねえ」とエラリイは微苦笑に唇をゆがめた。
 「エラリイ、あたしが犯人なんだとしたら、どうやって毒入りのカップを避けたわけ?あたし、自分のコーヒーはちゃんと飲んだわよ」
 エラリイは短くなったセーラムを十角形の灰皿でもみ消しながら、ゆっくりと瞬きを繰り返した。
 「カップの数はたかだた6個だよ。毒入りカップの位置を覚えておくくらい、造作もないことだろう。万が一、自分に毒入りが当たってしまった時には、口をつけなければそれで済んだ」
 「あたしじゃないわ」
 長い髪を振り乱して、アガサは幾度もかぶりを振った。
 ヴァンがぼそりと口を開いた。
 「エラリイ、思うんだけどね、アガサが犯人なら、そんな、真っ先に疑われるようなふりな機会をわざわざ選ぶだろうか」
 ポウはエラリイを見据えた。
 「このホールのテーブルのランプ一つだけ。しかもあの時、トレイのカップを取る他人の手元に注意を払っていた者などおるまい」
 「何を言いたいんだい、ポウ」
 「エラリイ、最初にカップを取ったのはお前だったな。そのついでに、隠し持っていた薬を隣のカップに放り込むという早業もできただろう。どうだ、マジシャン」
 「ははん、気が付かれたか。それについちゃ、やってないと主張するしかないね」
 「鵜呑みにできんさ。しかし、可能性はまだ他にもある。カーはあのコーヒー以前に毒を飲まされていた、とかな」
 「遅効性のカプセル、かい」
 「そうだ」
 「それを言うと、いちばん怪しくなるのはキミだよ、ドクター。そもそもヒ素などストリキニーネだの、そんな毒物を手に入れることからして、考えてみれば素人には難しいしね。医学部の君か、理学部のヴァンか、薬学部のアガサか。僕とルルウは文系だ。劇薬、毒薬の類を置いている研究所とは無縁だよ」
 「持ちだそうと思えば、ずいぶんいい加減なものだ。農学部でも工学部でもいい、それらいい部に入り込めば、たいして気に留める奴もいない。それに、親戚がO市で薬局をやっていると言っていたのはエラリイ、お前だろうが」
 エラリイは小さく口笛を吹いた。
 「物覚えのよろしいことで」
 「要するに、薬の入手方法についてここで論じるのは無意味だって話だ。毒の投入については、もう一つの可能性がある。あらかじめカップの一つに毒に塗り付けて置くという方法だ。これなら、誰にでも機会はあったはずだな」
 「そのとおり」
 微笑みエラリイを、額にうちかかった髪を掻き上げながら、アガサが怨めし気に睨みつけた。
 「わかってたの、エラリイ。それなのに、あたしばっかり犯人扱いして」
 「他の連中も追い追い、いじめるつもりだったさ。
 ところでアガサ、君に聞いておくことがある。コーヒーを淹れる前に、君はカップを洗ったかい」
 「島の探索から戻って、お茶を飲んだでしょ。あのあとよ。洗ったカップは台所のカウンターの上に・・・」
 「これでいよいよ、毒はあらかじめカップに塗られていたっていう可能性が大きくなってきたわけだ。夕方のうちに台所へ行って、6つのカップのうちに一つに毒を塗り付けるだけで良かった。チャンスは誰にでもあったはずだね」 
 ルルウが言った。
 「けどエラリイさん、それだと、犯人はどうやって毒入りカップを見分けたわけですか。コーヒーに口をつけなかった者はいないんですよ」
 「何か目印があるに違いないね。その一つだけ塗りが剥げているとか、欠けているとか」
 言いながらエラリイは、カーの使ったモスグリーンのカップに手を伸ばした。
 「おや、変だな」
 エラリイは不審そうに首を傾け、ルルウにカップを渡した。
 「僕には、別に他と違うところはないように見えるが」
 「小さな傷くらい付いてないの」と、アガサが聞いた。
 「ありませんね、どこにも」
 「見せて」
 今度はアガサの手にカップが渡る。
 「ほんと。何も目印になるようなものはないわ」
 「つまり、事前に毒を塗った可能性は否定されるってわけか」
 納得いかぬといった顔で、エラリイは横髪を撫でつけた。
 「となると、残る方法はさっきの3つだけだってことになるね。アガサが犯人か、僕が犯人か、あるいは毒入りのカプセルを前もって飲ませて某が犯人か」
 「いずれにせよ、ここでその方法と犯人を特定するのは無理なようだな」と、ポウが言った。
 エラリイは、アガサがテーブルに置いたカーのカップを再び手元に引き寄せ、視線を落とした。
 「目印がなくても、外部の者が犯人ならいっこうに構わなかった」
 「何だって?エラリイ」
 エラリイはカップから目を離し、
 「いや・・・ところで、やはり気になるのは動機だな」
 「そんな動機なんて・・・」
 ルルウが弱々しく首を振る。
 「あるはずさ。たとえそれが、どんなにいびつな形をしたものであったとしてもね」とエラリイはきっぱりと言った。
 「頭がおかしいのよ。そんな人間の考えなんて、あたしたちにわかるわけないわ」
 アガサが甲走った声を上げた。
 エラリイは左腕を持ち上げて時計を見た。
 「もう夜が明けるね。どうする、みんな」
 「眠らんわけにはいくまい」
 「そのようだね、ポウ」
 エラリイは何も言わずに立ち上がり、自分の部屋に向かう。
 「待て、エラリイ」とポウが呼び止めた。
 「全員一緒に、同じ場所で寝た方がいいんじゃないか」
 「嫌よ、あたしは嫌よ」
 アガサが怯えた目で訴えた。
 「隣の誰かが犯人だったらどうするの。思っただけで鳥肌が立つわ」
 「隣に寝ている人間を殺すような真似はするまい。すぐに捕まっちまうからな」
 「しないって言いきれるの?ポウ。犯人が捕まっても、その前に自分が殺されたんじゃたまらないわ」
 今にも泣きだしそうな顔で、アガサは椅子を倒して立ち上がった。
 「待てよ、アガサ」
 「嫌!誰も信用できない」
 そしてアガサは、逃げ込むようにして自分の部屋に消えてしまった。
 ポウは長い溜息をつき、
 「かなり参っているな、彼女」
 「当り前さ」
 エラリイは両腕を広げ、肩をすくめた。
 「正直言って、僕もアガサと同じ心境だね。一人で寝させてもらうよ」
 「僕もそうします」とルルウ。
 続いてヴァンが立ち上がると、ポウはがさがさと髪をかき回しながら
 「戸締りには気を付けるよ、みんな」
 「心得ているよ」
 答えてエラリイは、玄関へ続く両開きの扉にちらりと目を走らせた。
 「僕だって、死ぬのは怖いさ」

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 今日の十角館の殺人はどうかな?


 「気圧の谷の影響で、今夜遅くから明日の夜にかけて雲の広がるところがお多くなりますが、天気の崩れはさほどでもなく、明後日にはゆっくりと回復に向かうでしょう」
 ルルの持ってきたラジカセから流れ出す声はやがて、かびすしい女性のディスクジョッキーに切り替わった。
 「もいいんじゃない。消してよ、聞きたくないわ」
 苛立たしげにアガサが言ったので、ルルウは慌ててスイッチを切った。
 簡単な夕食後重苦しい沈黙の中で終えたばかりだった。ランプの灯った十角形のテーブルの6人は、オルツィの部屋のドアの真正面に当たる席を避けて取り囲んでいた。ドアには『第一の被害者』のプレートが貼り付いたままだった。強力な接着剤が使われているらしく、剥がそうとしても剥がれないのだ。
 「ね、エラリイ。何かまた手品、やってよ」
 今度はことさら明るい調子で、アガサが言った。
 「うん?ああ、そうだね」
 エラリイはそれまで黙っていじり続けていたカードを、一度リフルシャッフルしてからケースに収め、上着のポケットに入れた。
 「見せてって言ってるのに、しまっちゃうの?」
 「違うよ、アガサ。この状態から始めなきゃいけないマジックなんでね」 
 エラリイは軽く咳払いを一つして、隣席のアガサの目を覗き込むように見せた。
 「じゃあ、いいかい、アガサ。今から、ジョーカーを除く52枚のカードの中から1枚、なんでもいい、好きなカードを心に浮かべてほしいんだ」
 「思ったわ」
 「それじゃあ」
 エラリイは上着のポケットから再びカードを取り出し、ケースに入ったままの状態でテーブルに置いた。赤裏のガイシクルである。
 「このカードケースをじっと見つめて。そうして君が思い浮かべたカードの名前を、ケースに向けて強く難じるんだ」
 「分かった」
 エラリイはカードケースを取り上げ、左手に持った。
 「さてアガサ。いま君が自由に思い浮かべ、このケースに向かって念じたカードは何だった」
 「ダイヤのQだけど」
 「じゃあ、ケースの中身を見てみようか」
 エラリイはケースの蓋を開け、中からお元向きのデックを引き出した。そしてそれを両手の間で、少しずつ扇方に広げていく。
 「おや」
 カードを広げる手を止めて、エラリイは注目を促した。表向きのカードの中に1枚、裏向きのカードが現れたのである。
 「1枚だけ裏を向いているね。これを抜き出して、表を見てくれるかな」
 「まさか」
 アガサは半信半疑の面持ちでそのカードを抜き出し、テーブルの上に表返して置いた。まぎれもなく、それはダイヤのQだった。
 「今のはすごいですね、エラリイさん」
 「ルルウには見せてなかったけ」
 「初めてですよ」
 「カード当てのトリックの最高傑作のっ一つだよ、今のは」
 「ひょっとしてアガサ先輩がサクラだとか」
 「違うわよ、ルルウ」
 「ワクラなんて使わない。ついでに言っておくと、アガサがダイヤのQを思い浮かべる52分の1の確率に賭けた、プロパビリティのトリックでもない」
 エラリイはセーラムに火を点け、ゆっくりとひと吹かしした。
 「じゃあ次は一つ謎かけといこうか。このあいだ本で見たんだけれども、『上を見れば下にあり、下を見れば上にあり、母の腹を通って子の肩にあり』。何のことかわかるかい」
 「分かったわ」
 アガサが手を打った。
 「『一』でしょう。漢字の一」
 「ご名答」
 「あ、なるほど、字の形ですか」
 「それじゃあ、こういうのは?『春夏冬二升五合』と書いてどう読むか」
 樺細工の煙草入れに新しいラークの箱を収めながら、ポウが言った。
 「『春夏冬』で秋がない、つまり商いだろう。『二升』は升に二杯だから、ますます。『五合』は一升の半分、つまり繁盛ってわけだ」
 「『商いますます繁盛』ですか」
 「そういうことだ」
 「へえ、こじつじつけもいいところですね」
 「あ、一種の暗号と言えんこともないな」
 「暗号と言えば」
 エラリイが話をつづけた。
 「それらしきものが最初に登場する文献は『旧約聖書』なんだってさ。この中の『ダニエル書』だったかな」
 「そんな古くからあるんですか」
 「日本でも、昔から暗号めいたものはあったみたいでね。たとえばほら『続草庵集』にある吉田兼好と頓亜奉仕の有名な問答歌とか。
 確か『徒然草』に違うタイプの有名な暗号歌があったと思うんだけど、何だったけな、オルツィ」
 何気なしに耳を傾けていた一同が、はっと息を呑みを。凍り付いた。
 「悪い、つい」
 さすがにエラリィは強い狼狽を見せた。
 その時カーがテーブルを叩いた。
 「アガサ、コーヒーを淹れてくれよ」
 エラリイはぴくりと膝を震わせて何か言おうとしたが、アガサがすかさずそれを制した。
 「淹れてくるわ。みんなも飲むでしょう」
 そそくさと立ち上がると、アガサは一人で厨房に向かった。
 「なあ、みんな」
 残った4人の顔を順にねめつけながら、カーは言った。
 「今夜は可哀そうなオルツィの通夜じゃないか。知らんふりは辞めにして、もうちょっと神妙にやろうぜ」


 6個のモスグリーンのカップを載せたトレイを、アガサはテーブルに置いた。
 「悪いね、毎度毎度」と言って、エラリイが手近のカップを取った。他の者たちも次々と手を伸ばす。アガサは自分の分を取ってから、残った1個を、トレイに載せたまま隣席のヴァンに差し出した。
 カップを受け取ると、ヴァンは吸いかけのセブンスターを灰皿に置いて、手を暖めるようにその十角形を包み込んだ。
 「風邪はもういいの?ヴァン」
 「おお、うん、おかげさまでね。
 ねえ、エラリイ、よく相談しないままになってるけれど、本当に何か、本土と連絡を取る方法はないんだろうか」
 「ないようだね」
 エラリィはブラックのままコーヒーを啜った。
 「J崎に灯台があるから、夜にこっちで白い旗でも振れば、とも考えたんだがね。あそこの灯台は確か、無人だろう」
 「火を焚くっていうのも考えたんだがな、エラリイ」とポウが言った。
 「しかし、松葉を燃やしたくらいじゃあ気づいてはくれまい」
 「いっそのこと十角館に火を点けてしまうかい」
 「いくら何でも、それは」
 「まずいだろうね。危険でもある。実はね、ポウ、さっきルルウと二人で、連絡手段とは別に、ある探し物をしてたんだ。
 島銃をたいがい見て回ったんだが・・・いや、ちょっと待てよ」
 「どうした」
 「青屋敷、焼け落ちた青屋敷だけれども、あそこに地下室はなかったのかな」
 その時、二人の会話を叩き切るよう突然、気味の悪い呻き声を発してテーブルに突っ伏した者がいた。
 「何なの?」
 アガサが叫んだ。
 「どうしたの?」
 調子の狂った自動人形のように、やみくもにばたつく彼の蘆が、派手な音を立てて椅子を蹴り倒した。テーブルにへばりついた状態はやがて、ずるずると青いタイル張りの床に崩れ落ちる。
 「カー!」
 一声叫んで、ポウが駆け寄った。
 「誰か、カーに持病があるとは聞いてないか」
 答える者はいない。
 「手を貸してくれ、エラリイ。とにかく吐かせるんだ。毒だ、おそらく」
 カーの身体が激しく痙攣し、ポウイの手を離れた。白目を剥き、海老のように身を折り曲げて床の上をのたうつ。ややってまた、激しい痙攣。おぞましい音とともに口から溢れ出す茶色の吐物。
 「まさか、死んだりはしないよね、ね?」
 怯え切った目で、アガサがポウを窺った。 
 「俺に聞いてもわからん。毒の種類がわからない。わかったとしても、ここではどうしようもないが。致死量に達していないことを祈るしかない」


 その夜、午前2時半。
 割り振られた部屋のベッドの上で、カーは息を引き取った。

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 今日の十角館の殺人はどうかな?


 「ちくしょうめ」
 岩に腰掛け、眼前に浮かぶ猫島に視線を据えて、カーは唾を吐き捨てた。
 (あいつら、普段は手前勝手なことばかりしてるくせに、俺を責める時だけは団結してかかってきやがる)
 だいたい、あのときオルツィの死体と現場を調べたいと考えたのは俺だけじゃないはずだ、とカーは思う。
 特にエラリイなんかは、自分で調べたくてうずうずしていたのではないか。
 (元はと言えばオルツィだ。俺があいつに振られたって?ふん、退屈しのぎに、ちょっと声をかけてやっただけじゃないか。それをあの女、本気だと自惚れやがって、馬鹿馬鹿しい)
 怒りと屈辱に身をよじらせながら、ガーは前方の風景を睨みつけた。


 「やはり船などありそうにないわ。木を切って筏を作ろうにも、道具がない。よしんば作れたとしても、いったいそんなもので陸まで辿り着けるかどうか」
 何とかして本土に連絡を取るすべはないかと、カーを除いた5人は、二手に分かれて島を探索することに決めた。こちらは、ポウ、ヴァン、アガサの3人。島の南岸から東岸にかけて見て回っているところである。
 「火でも焚いて見つけてもらうしかないか」
 「そんなことで気がついてくれるかな。それに」
 タバコに火を点けながらヴァンは空を仰いだ。
 「どうも雲行きが怪しい。今晩あたり、雨になるかもしれないよ」
 「まったくなんだって、万一の場合に備えて連絡方法を考えておかなかったんだ」
 「今更言っても仕方ないよ。誰もこんな事態、予想しなかったもの」
 ヴァンは肩を落とす。
 「さっきから漁船の1隻も通らないわ」
 悲壮な声でアガサが言った。
 「おや、そのうち近づいてくる船があるかもしれん。見張りを立てておいたほうがいいかもな。2人1組、3交代で」
 「嫌よ、ポウ」
 アガサがヒステリックに叫んだ。
 「人殺しかもしれない人間と2人きりになるなんて、冗談じゃないわ」
 「全員で来てもいいさ、ヴァン。もしこのあたりを通る船があるとすれば、どうせそれは港に出入りするころ、夕方か夜明けくらいものんだろう」
 「そうとは限らないんじゃまいかな」
 「ここへ渡ってくる時、漁師の親父さんが言ってた。この辺の漁場はもっとずっと南の方だから、島に近づく船はめったにないらしい」
 ポウは背後の林を振り返った。
 「松がかりだ。生木はうまく燃えまい。枯れ落ちた松葉でも集めて燃やすか。その程度ではしかし、とうてい陸からは見えんだろうな」
 「ねえ、あたしたちどうなるの」
 アガサが怯えた目を二人に向けた。普段の自信に満ちた輝きなど、見る影もない。
 「大丈夫だ、何とかなる」
 ぽんとアガサの肩を叩いて、ポウは髭面にぎこちない微笑みを繕った。
 「でも、そう言ってるポウや、もしかしたらヴァンが、オルツィを殺した犯人なのかもしれないのね。カーもルルウも、エラリイも」
 アガサは青ざめた頬をわななかせながら
 「その中の誰かが、オルツィを殺したのよ。殺して、手首を切り取ったんでしょう」
 「そういうアガサだって、容疑者の一人なんだよ」
 いつになく険しい表情で、ヴァンが言った。
 「あたしは違うわ」
 アガサは林のほうへふらりと後ずさり、頭を抱え込んだ。
 「オルツィは本当に死んじゃったの。本当に犯人は、あたしたちの中にいるの?」


 「僕はね、ルルウ。別の可能性もあると考えている」
 「別のって?」
 「この島に、誰か第三者が潜んでいるかもしれないっていうことさ」
 「え」
 エラリイとルルウは、桟橋のある入江と青屋敷跡の横手の岩場を見に行ったあと、林の中を抜ける小道を進んでいた。目指すは猫島が見える島の北岸である。
 「外部犯の可能性だよ。それもと何かい。お前は僕らの中に殺人犯がいると、そう考えたいのかな」
 「でも、島に潜んでるって、いったい誰が」
 「僕が思うには、中村青司さ」
 「けどエラリイさん、中村青司は去年殺されて・・・」
 「半年前の事件で見つかった青司の死体、あれは顔のない死体そのものじゃなきか。しかも行方をくらました庭師がしるときてる」
 「実は青司が犯人で、青司だと思われていた死体が庭師のものだったと?」
 「そう、単純な入れ替わりトリックさ」
 「だから青司は生きていて、今この島に来てるって言うんですか」
 「ひょっとしたら、この島に住んでいるのかもしれない」
 「住んでいる?」
 「一昨日の漁師の親父さんの話、覚えているだろう。十角館に明かりが灯るって話さ。」
 「あの手の幽霊話を真に受けてたら、きりがありませんよ。だいたい、あの事件で警察や報道陣が島に来ていた間、それに今現在だって、青司はどこに隠れているって言うんです」
 「だからさ、こうして島を見て回っている。もちろん本土への連絡手段を探すことが先決だが、どこかにせめて人の隠れていた痕跡でも見つからないかと思ってるんだ」
 「ですけど、やっぱりそんなこと。青司が犯人だなんて、考えられませんよ」
 「そうかな。オルルィの部屋、窓に掛け金が下りてなかったって言っただろう。たとえば、オルツィが鍵を掛け忘れた窓から外部の者が侵入した、と考えるのは容易だろうか」
 「ドアの鍵はどうして外れていたんです」
 「犯行後、犯人が中から外したのだ。ホールに出て、例のプレートをドアに貼り付けるために」
 「それは変ですよ。外部の誰かが犯人なら、エラリイさんが台所の引き出しにしまっておいたのあのプレードのありかを、どうやって知ったわけですか」
 「プレートを用意することは外部の者にもできるだろう。十角館の玄関の鍵が壊れているから、ホールへの出入りは自由だ。あるいは、僕らの中に手引きをした者がいるとも考えられる」
 「そんな、まさか」
 「あくまでも可能性を議論してるだけさ。ルルウ、お前は無類のミステリ好きのくせいて、ちょっと想像力が乏しすぎるね」
 「現実とミステリは別物ですよ。エラリイさん、なあ、例えばその中村青司に、いったい僕らを殺すなどどんな動機があるっていうんですか」
 「さてね」
 小道を抜けて崖の上に出ると、そこにはカーがいた。二人の姿を見るなり、彼はぷいっとそっぽを向いて立ち上がった。
 「あおい、あまり単独行動はとらない方がいいぞ」
 エラリイが、何も言わずに立ち去ろうとするカーをたしなめる。しかし、カーは振り返りもせず、乱暴な足取りで林の中へ消えてしまった。
 「困った男だな」
 エラリイは軽く舌を打った。
 「どうもあいつ、僕のことを目の仇にでもしてるみたいだな」
 「何となくわかるなあ。エラリイさんって、いつも、こんな時でもそんなに冷静で、なんだか一歩離れたところから人間を眺めているって雰囲気、あるでしょう」
 「そう見えるかい」
 「見えますよ。ですからね、お世辞はなくって僕なんかは、ある種の尊敬の念みたいなものを抱いてしまう。だけどカー先輩は逆なんだな。嫉妬しちゃうんですよ、きっと」
 「ふうん、そんなものかね」
 エラリイは我関せずといった顔で、海に向かって足を踏み出した。
 「灌木ばかりだな。ここからは見通しが良くないね」
 正面に見える猫島のことである。
 「人が2、3人隠れるくらいなら、まあ不可能じゃさなそうですね。でも、この断崖ですよ」
 「この程度の距離なら、小さなゴムボードでもあれば十分だろう。あっちの岩場から出て・・・ああ、ほらルルウ、島のあそこの斜面、登れそうじゃないか」
 「ええ、そうですね」
 ルルウは混乱する頭の中の件名に思いを巡らせた。
 なるほど、エラリイの指摘した外部犯の可能性は、一概には否定できない。
 何かしら引っ掛かるものが、記憶のどこかにある。何か、思い出さなければならない何かが。

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 今日の十角館の殺人はどうかな?


 「馬鹿げてますよ」
 「ルルウ」
 「人殺しだなんて、冗談じゃない。悪い夢なんだ、きっと。何かの間違いに決まってる」
 「ルルウ、やめてちょうだい」
 甲高いアガサの声に、ルルウは丸め込んでた肩を震わせ、のろりと顔を上げた。
 「すみません」弱々しく呟いて、再び今度は押し黙って下を向いてしまう。
 6人はホールのテーブを囲んで座っていた。
 「オルツィは殺したのはだあれ」
 ローズピンクに彩られた唇から、呪うように吐き出されたアガサの問いかけは、冷え冷えとした空気を細かく震わせ尾を引いた。
 「私が殺した、とは誰も言わないさ」とエラリィが応じた。
 「犯人はこの中にいるんでしょ。この6人の中に」
 「それでも名乗りでるくらいなら、誰も人殺しなんかするものか」
 「でも、エラリィ」
 「分かってるよ。アガサ、分かってる」
 エラリィは拳で軽くテーブルを叩いた。
 「僕らはやはり、犯人を知らなきゃならない。どうだろう、ポウ。知りえた事実を発表してくれる気はないかい」
 いくばくかのためらいを見せた後、ポウは厚い唇を引き締め、深くうなずいた。
 「さっきも言った通り、彼女は、オルツィは、首を絞められて死んでいた。首には、どこにでもあるようなナイロン製の紐が巻き付いたままで、その下にはくっきりと索痕が残っていた」
 「抵抗した形跡は?」
 「なかった。眠っているところを襲われたのか、不意を突かれたのか、どちらかだろう。頭を殴られた痕は見られなかったから、事前に昏倒させられらのではない。ただ、一つ解せないことがあって」
 「何だい、それは」
 「オルツィの死体には左手首から先がなかった」
 「何だって?」
 「どういうことなの、ポウ」
 「だから、左手が切り取られていたんだ」
 騒然とした場を、ポウはゆっくりと見渡した。
 「ナイフか包丁か、何か大ぶりな刃物を使ったらしい。犯人はかなり苦労してはずだ。切断面はひどいもんだった」
 「当然、殺したあとで切り落としたんだろうね」とエラリイが言った。
 「そう考えてまず間違いあるまい。心臓が動いているうちに切ったのなら、あの程度の出血では済まなかったはずだからな」
 「それらしき刃物は、あの部屋には見当たらなかったね」
 「ああ、切り取られた手首から先も、僕の見た限りではなかった」
 「犯人が持ち去った、か」
 エラリイは、しなやかな指を固く組み合わせながら、自問するように呟いた。
 「なぜ、犯人はそんなことをしたのか」
 「頭がおかしいのよ」
 アガサが声高に言った。
 エラリイは軽く鼻を鳴らし、
 「よほど悪ふざけの好きな奴だな。見立てだよ、これは。犯人はね、去年この島で起こったあの事件に見立てたのさ。
 青屋敷の四重殺人事件。被害者の一人である中村和枝は、絞殺されたうえ左手を切り取られていた」
 「けどエラリイ、どうしてそんな」
 「見立ての意図がどこにあるのか、かい?さて」
 エラリイは肩をすくめた。
 「とりあえず先に進もう。ポウ、死亡時刻は推定できるかい」
 「死斑は軽微だった。脈をとってみた時、死後硬直の始まっているのがわかった。握り締めた右手の指をわりあい容易に広げることができたから、硬直は関節までは及んでいない。あと、血液の凝固状態を考え合わせると、そうだな、死後4時間から5時間。死亡したのは今朝の7時から8時ごろ。幅を持たせて、6時から9時といったところか。こいつはあくまでも素人の意見なんだから、鵜呑みにして盛られては困る」
 「信用できるさ」
 猿のように歯をむき出してカーが笑った。
 「大病院の後継ぎ息子にして、K大医学部きっての秀才がおっしゃるんだからな。むろん、そのご当人が犯人じゃないとしてのことだがね」
 ポウは黙したまま、カーのほうには一瞥もくれなかった。
 「今朝の6時から9時、自分のアリバイを主張できる者はいるかい」
 エラリイが皆に問いかけた。
 「何か事件に関連して、気づいたことのある者は?」
 答える者はいない。
 「じゃあ、動機に心当たりのある者は?」
 ルルウとヴァン、そしてアガサの視線が、カーの顔をそろりと窺った。
 エラリイが突き放すような調子で言った。
 「どうやらカーだけのようだね」
 「何だと?何で俺が」
 「振られたんだろう、オルツィに」
 カーはうっと声を呑んで、血が滲まんばかりに唇を噛んだ。

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 今日の十角館の殺人はどうかな?


 アガサの目が覚めたときにはもう、昼が近かった。
 昨夜ベッドに入ったのは、午前3時を過ぎてからだった。
 身支度をして、洗面具と化粧品の入ったポーチを持って部屋を出た。
 人気のない十角館のホールは、もう正午だというのに相変わらず薄暗く、中央のテーブルだけが白く浮かび上がって見えた。
 アガサはまっすぐに洗面所に向かい、手早く洗面と化粧を済ませた。ホールに戻ると、テーブルの上に散らかったままのカップやグラス、吸い殻でいっぱいの灰皿を片付けにかかる。
 視界の片隅に何か赤いものが引っ掛かった。


 第一の被害者


 どこかで物音がしように感じて、次の瞬間、アガサはありったけの悲鳴を上げていた。
 背後のドアが勢いよく開き、真っ先に飛び出して来たのはカーだった。棒立ちになったアガサを見つけ、次に彼女が凝視しているものに目をやると、「誰の部屋だ」と怒鳴りつけるように問いかけた。
 赤い文字のプレートは、ドアの名札を覆い隠すように貼り付けられているのだ。
 十角形を取り囲んだドアが次々に開いて、他の者たちが飛び出してきた。
 「誰の部屋だ、アガサ」とカーが繰り返した。
 「オ、オルツィの」
 「何ぃ」
 弾かれたようにそのドアに駆け寄ったのはポウである。
 鍵はかかっていなかった。
 呆気ないほど素直に、ドアは開いた。
 「オルツィ!」
 咆哮のように叫ぶなり、ポウは室内に踊り込んだ。
 「なんてこった、オルツィ・・・」
 顔にかぶせられたカーディガンを力尽きたような重い手付きで持ち上げると、ポウは幅広い方を小刻みに震わせた。彼に続いて部屋の入口まで押し寄せ、そこで立ちすくんでいた他の5人が、それにつられて雪崩れ込もうとする。
 「来ないでくれ。頼む。この顔は見ないでやってくれ」
 オイウは両手を挙げ、哀願するように皆を制した。
 「出よう、みんな」と、ポウは仲間たちを振り返った。
 「ここは現場だ。鍵を掛けて置いたほうがいい。鍵は?」
 「ここだよ」
 いつの間にかそこまで足を踏み入れていたのか、エラリイが窓際の机の上からそれを取り上げた。
 「窓の掛け金を外れているが、どうする」
 「掛けて置いたほうがいい。出るぞ、エラリイ」
 「ねえ、オルツィは?」とヴァンが尋ねた。ポウはエラリイから受け取った鍵をぎゅっと握り締め、押し殺した声で答えた。
 「死んでる。絞殺だ」
 「嘘っ」
 アガサが小さく叫んだ。
 「本当だ、アガサ」
 「そんな。ポウ、オルツィに会いたいわ」
 「それは駄目だ」
 ポウは目をつぶり、苦し気に首を振った。
 「オルツィは絞め殺されているんだ、アガサ。頼むから見ないでやってくれ」
 アガサはすぐに、ポウの真鍮を理解した。絞殺死体の凄まじい形相のことを、彼は言っているのだ。彼女はこっくりと頷くと、促されるままに部屋を出た。
 蟹のような図体が横から割り込み、彼の胸を押しのけて立ちはだかった。
 カーだった。
 「俺たちはある意味じゃあ、殺人事件の専門家なんだぜ。もっと詳しく現場と死体を調べさせろよ」
 「馬鹿野郎」
 ポウは顔色を蒼白に変え、全身を震わせて怒鳴った。
 「お前は仲間の死を、自分の慰みものにする気か。警察に任せるんだ」
 「なに寝言言ってるんだい。警察がいつ来る?どうやって知らせる?あのプレートを覚えているだろうが。ふん、刑事さんたちがお出ましになる頃にゃあ、『殺人犯人』と『探偵』以外はみんな殺されちまってるって話じゃないのか」
 ポウは取り合わず、無理にでもドアを閉めようと力を加えたが、その腕を、カーの節くれだった黄色い手が、再びやんわりと押しとどめる。
 「次はおたくが殺されるかもしれなんだぜ。それとも自分だけは殺されないって自信でもあるのか。そんな確信が持てるのは、犯人だけのはずだがね
 「何だと?」
 「おやぁ、図星かい」
 「貴様!」
 「よせよ、二人とも」
 ヴァンがカーの腕にとびかかり、ドアの横へ引きずり出した。
 「見苦しいな、カー」
 いつの間にか厨房に行ってきたのか、残り6枚となった例のプレートを手に、エラリイは言った。
 「ポウが正しい。残念ながら、ね」

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 今日の十角館の殺人はどうかな?


 「お前のことだから、今日一日でもう、探偵ごっこはうんさりって顔なんじゃないかと思ってなんだけどね」
 ティーバックを放り込んだカップの湯を注ぎながら、守須は半ばからかい口調で言った。
 「まあ、とりあえず調査報告といこうか、探偵殿」
 そして、江南は今日自分たちが入手した情報を、要領よく守須に伝えた。
 「ふうん、なるほどね」
 2杯目の紅茶を淹れて、守須は砂糖も入れずに飲み干した。
 「で、明日はどうするつもりなんだい、ワトスン君」
 「正直いってやっぱり、ちょっと気抜けした感じなんだよ。そもそも長い春休みで退屈だったんだろうな。そこにあの、死者からの手紙だろう。無視なんてできるわけない。例によって、こいつは何かあると勇み立ってはみたものの・・・」
 「退屈しのぎ、大いにけっこうじゃないか。ところで守須君、安楽椅子探偵の意見を聞きたいな」と島田が言った。
 「実は昨日、話を聞いた時から、一つ考えていることがないでもないんです。」
 「ふむ。コナン君の言う通り慎重派だね、君は」
 「つまりね、角島事件のパターンは例のネヴィンス・ジュニアが言うところの、バールストン・ギャンビットなんじゃなかな」
 「青司が本当に生きているっていうのか」と江南が声を上げた。
 守須は3杯目の紅茶を淹れながら、ゆっくりと言葉をつづけた。
 「全身に灯油をかけられて燃えた死体だ。顔はもちろん、たとえば体に古傷は手術の痕があったとしても、そう簡単に確認できやしない。しかもその上、ちょうど時を同じくして行方不明になった庭師がいるときてる。
 島田さん。ちょっとして青司と吉川誠一の年齢や背格好、もう調べてあったりしませんか」
 「ははっ、鋭いね、さすがに。
 吉川は青司と同い年、同時46歳だった。体格はともに中肉中背。ちなみに、血液型も同じA型だ。焼死体から検出されたのも。当然ながらA型だった」
 「どうやってそんなことまで調べたんですか」
 「おや、言ってなかったかな。ちょっとその、警察にコネがあったね。さて守須君、仮に中村青司と吉川誠一の入れ替わりがあったとしてだ、じゃあ君は、どのように事件を組み立てなおす?」
 「最初に殺されたのは、和枝夫人でしたね。推定された死亡時刻は17日から18日の間、でしたか。吉川誠一が島に到着して、政子に電話を入れたのが17日の午後ということですから、恐らくこの時はもう夫人は殺されていたのだと思います。彼女の姿が見えないのを訝しむ吉川に対して、青司はたとえば、病気で寝込んでいるのだと偽った。
 次に青司は、事の発覚を恐れ、北村夫婦と吉川を殺してしまおうと決心した。3人に薬を持って縛り上げ、自由を奪う。そして19日、北村夫婦を斧で殺害。その後、薬で眠らせ続けていた吉川を、和枝夫人を殺したのと同じ部屋に運んで、拘束を解いて、もしかすると自分の服を着せ替えたうえで灯油をかけた。屋敷に火を放ち、島から逃げる。
 こうして、犯人である青司と被害者の一人である吉川との入れ替わりが成立したわけです。ただし、このように考えても依然、不明な箇所がいくつか残ります」
 「ふん、それはどんな」
 「第一は動機ですね。そもそも青司はなぜ、20年以上も連れ添ってきた夫人を殺さなきゃならなかったのか。
 第二は、これも昨夜言いましたけど、切り取られた手首の件。青司はなぜ、夫人の左手首を切り取ったのか。それをどこへやってしまったのか。
 第三は犯行時刻のずれの問題です。最初に夫人を殺したのが17日だとして、最後の吉川が20日未明。この3日間、いったい青司は何をしていたのか。
 最後に、そうして犯行を終えた青司は、どのようにして島を脱出したのか。その後現在に至るまで、どこに身を潜めているのか」
 「だいたい、僕がここに来るまでに考えていたのと同じだな」と島田が言った。
 「そしてね、どうやら僕は、いま君が列挙した疑問点のうちの、少なくとも最初に一つには答えられそうに思う」
 「和枝夫人を殺した動機についてですか」
 「そうだよ。むろんこれも、さっき君が言ったのと同じで、憶測の域を出ないものだがね」
 「嫉妬ですか」
 守須がそろりと問うと、司または唇をすぼめて頷いた。
 「コナン君、吉川政子が中村千織について話したこと、覚えているかい」
 「ええ、そりゃあもちろん」
 「千織が島に帰ってくるころはめったになかったようだ。それから和枝夫人は娘を溺愛していたと言っていたが、青司のほうはどうだったかと聞くと」
 「彼は子供が好きではなかったんじゃないか、という風に言ってましたね」
 「僕が言いたいことはもうわかるだろう」
 「千織は青司の娘じゃなかった、と思うわけですね」
 「その通りだよ、守須君」
 「では、誰の娘だったと」
 「それは、中村紅次郎の、さ。政子によると、彼女が吉川と結婚して家を出るまでの頃には、紅さんはたびたび島を訪れていたというんだね。つまり元からそんなに兄弟仲が悪いわけじゃなかったのさ。そして紅さんがふっつりと島に来なくなった、その時期というのは実は、千織の生まれた時期と一致するんじゃないかと思うんだ」
 「それで今日の帰り、紅次郎氏の家に寄ってみたわけですか」
 「そう、紅さんに会って、ちょっと探りを入れてみようと思ったんだが」
 いたたまれに気分になった守須は言った。
 「そういうことは、やめておくべきだと、僕は思いますね。
 さしでがましいようですけど、いくら島田さんが紅次郎氏と親しくしていらっしゃるにしても、そこまだ立ち入った問題を今から詮索するのは、どうでしょうか」
 「しかし守須、吉川誠一の女房を実際に訪ねてみたら、なんて言い出したのはお前じゃないか」と江南が言い返した。
 「軽はずみなことを言ってしまったなって、今日一日、後悔してたよ。面白半分でそういう真似をするのは良くない気がする。山の中で一日中、石仏と向かい合っていたら、ますますそう痛感してしまってね」
 キャンバスの絵は、パレットナイフで厚く色づけが施された段階だった。
 「何だが身勝手は話ですけど、島田さん、この辺で僕はもう降りたいと思います」
 守須が言うと、島田は別に悪びれる様子もなく、
 「じゃあ君の結論は、やはり青司が生きていると、そういうことだね」
 「僕が指摘したのは、これまであまり取沙汰されなかった一つの可能性に過ぎません。実際問題として、では青司が本当に生きているのかと聞かれたら、きっと僕はノーと答えるでしょう」
 「手紙の件は、どう解釈するのかな」
 「おおかた島へ行った連中のうちの誰かが、悪ふざけでやったんですよ。
 お茶、飲みますか」
 「いや、結構」
 守須は自分のカップに4杯目の紅茶を淹れた。
 「仮に、本当に青司が生きていたとしましょうか。その場合でもしかし。さほど愛してもいなかった、むしろ忌み嫌っていた娘、千織の死に関するあんな告発文を、いったい彼が書くものでしょうか」
 「はあん」
 「例えば殺意なんていう極端な感情を長く心に意地し続けるのは、普通に想像するよりも遥かに大変なことだ、と。
 もしも半年前のあの事件を起こしたのが青司で、彼が同時に和枝夫人だけではなく、千織を死なせた若者たちや弟の紅次郎氏に対しても殺意を抱いていたのだとしたら、その殺意が狂気とい形で爆発したのだとしたら、彼は夫人を殺して、返す刀で紅次郎氏や若者たちまで殺そうとしたんじゃないでしょうか。いった身を隠しておいて、半年も経った今になってあんな脅迫状めいたものを出す、そうして例えば彼らへの復讐を開始しようなんてね、人間の神経はそれほど強靭にできてはいないと思うんですよ」
 江南は仰向けに寝転がって腕を組んだ。
 「ま、島田さんも僕も暇人だからね。お前のポリシーはともかくとして、もうちょっと探偵ごっこは続けてみるから」
 「無理にやめろとは言わないよ」

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 今日の十角館の殺人はどうかな?


 安心院の吉川家を出たのが午後5時過ぎ、二人が別府まで帰り着いたのは、途中で夕食に降りたせいもあった、すでに9時をまわった頃だった。
 「ちょっと紅さんの家を覗いてみたいんだが、いいかな」と島田が言い出し、「構いませんよ」と江南は答えた。
 意気込んで遠出してきたものの、それにしては大した収穫も得られなかった気がする。
 (たとえば、吉川政子のもとにも青司名義の手紙が届いていた、という話だったら、僕は満足したんだろうか)


 やがて車は鉄輪の紅次郎宅に到着した。
 島田が呼び鈴を押した。家の中でその音の鳴るのが、かすかに聞こえた。だが、しばらく待っても応答はない。
 「おかしいな。明かりは点いているのに。もう寝ているのかなあ。いいか、また今度にしよう。さて、行こうか」


 国道に出てO市へ向かう。
 「僕もある意味では、当て外れの気もしたけどね、別の意味じゃあ、今日の安心院行きは大収穫だよ」と島田が言った。
 「と言うと」
 「当てが外れたっていうのは、吉川誠一の消息に関する話だね」
 「でも島田さん、行方不明になってまだ半年だというのに葬儀まで済ませてしまったっていうのは、かえって何かあるように思えませんか」
 「僕の見たところでは、あの政子っていう女はどうやっても嘘のつけるタイプじゃない。正直で人が好いのだけが取り柄の女だ」
 「はあ」
 「これでも人間を見る目はけっこう鋭いつもりなんだよ。ま。坊主の勘とでもいうかな。
 コナン君、タバコを1本貰えないかな」
 「セブンスターで良ければ」と言って箱ごと手渡すと、島田は1本押し出して口にくわえた。
 「数年前までは、ひどいヘビースモーカーだったんだよ。ところが一度、肺を悪くしてね、依頼ほとんど吸わなくなった。1日に1本だけ、と怠惰な生活の中でこれだけは自分に課しているんだ。
 それでたね、収穫のほうはと言うと、まず青司にあまり財産がなかったっていう話。なるほど、吉川=犯人説の動機はかなり弱くなる」
 「和枝夫人に恋していたというほうは?」
 「どうもそっちの説は、初めからいただけないと思ってるんだ。いかにもこじつけって感じがしてねえ」
 「だけど島田さん、それじゃあ事件の犯人は」
 「一つ考えていることはある。いずれ話すけれども、それより今日の成果を、守須君に報告しあきゃならないんだろう」
 「ああ、そういえば」
 「守須君か、彼もなかなかいい名前だな」

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 今日の十角館の殺人はどうかな?


 玄関に現れた吉川政子は、江南の漠然として予想を裏切って、小紋の着物を品良く着こなした、控えめで人の好さそうな女性だった。
 実際の年齢はまだ40代前半くらいかもしれないが、心労のためだろうが、政子の顔はひどくくたびれ、老けて見えた。
 「今朝お電話した島田です。どうも突然、ぶしつけなことで」
 「紅次郎様のお友達でいらっしゃるとか。わざわざ遠いところを」
 「中村紅次郎氏とは面識がおありだそうですね」
 「はい、大変お世話になっております。ご存じかと思いますが、私は吉川と一緒になります前は、角島のお屋敷で働かせていただいておりました。青司様があそこにお住まいになった当初からです。元はと申しますと、それが紅次郎様のご紹介で」
 「なるほで、そこでご主人とお知り合いとなった?」
 「さそうです。主人も、当時からお屋敷に出入りしておりまして」
 「とこで、今日こうして伺ったのは、実はこんなものが、この僕の友達の江南君のところへ送られてきたからなんです」と言って島田は、江南が渡しておいた例の手紙を示した。


 島田と江南は薄暗い座敷に通された。
 「ご存じのとおり、主人は結局見つかりませんで。年が明けて先月には、もう死んだものと諦めて葬儀を・・・」
 「ご主人が角島に行かれたのは、屋敷が燃える3日前だったという話ですが、正確にはいつ?」
 「9月17日の早朝にここを発ちました」
 「その後、20日の朝に火の手が上がるまでの間に、もしかして何か、御主人から連絡があったというようなことはありませんか」
 「発ったその日の午後に、一度だけ」
 「その時、何か変わった様子はなかったのでしょうか」
 「いつもと同じ感じでした。奥様が御病気の様子だとかで」
 「和枝夫人が」
 「はい、姿をお店にならないので青司様にお聞きしたところ、病気で臥せっておられると」
 「失礼を承知で一つ伺いしたいのですが、御主人がその、和枝夫人に好意を抱いておられると思われるようなふしは?」
 「奥様のことは私も主人も、大変お慕いしておりました。奥様に横恋慕していたなど、とんでもない言いがかりです。それに」
 「何ですか」
 「主人が青司様の財産を盗んだという噂も、めっそうもない言いがかりでございます。第一命を狙われるような財産など、もう・・・」
 「もう?もうあそこにははかった、とおっしゃるのですか」
 「つまらないことを申しました」
 「青司氏と紅次郎氏は、あまり仲の良い兄弟ではなかったと聞きますが、そのことについてはどう思われますか」
 「はあ、青司様はあのように、いくぶん変わったお方でしたから・・・」
 「紅次郎氏が島を訪れるようなことは?」
 「私が勤めておりました頃はしばしば来ておられましたが、その後はほとんど、そういうことはなかったようです」
 「なるほど」
 「あのう」とそれまで黙って二人のやり取りに耳を傾けていた江南が、口を挟んだ。
 「中村千織さんの件はご存じでしょうか。実は僕、彼女と同じ大学の知り合いで」
 「ずっと小さい頃のお顔は、今でもよく覚えております。お可哀そうに。まだまだお若いというのに、あのようなことになってしまわれて」
 「千織さんはいつ頃まで島に住んでいたのでしょう」と島田が尋ねた。
 「確か幼稚園に入る年に、おじい様のところに預けられたとか。島へ帰っておいでになるのはごくたまで、たいがい奥様のほうがO市まで会いにいかれるのだ、と主人が申しておりました。奥様は、それはもう、大変は可愛がりようで」
 「父親の青司氏のほうはどうだったんですか、娘さんに対して」
 「おそらく青司様は、子供があまりお好きでなかったのではと存じます」

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 今日の十角館の殺人はどうかな?


 車は10号線を西に向かっていた。
 赤いファミリアのハンドルを握るのは島田だ。
 島田によれば、行方不明の庭師の吉川誠一の妻は政子という名で、今でも安心院の家に住んでいるとのことだった。午前中に住所を調べ出し、ついでに訪問のアポイントメントを取り付けておいたという。
 宇佐郡へ向かう山越えの坂に差し掛かった頃
 「そっちはどうだったのかな、コナン君」
 「確認できなかった分もあるんですけど、例の三次会に参加した連中のところを全部にあの手紙は届いていると、そう考えてまず間違いないみたいです」
 「で、そのうちの何人が島へ行ってるんだい」
 「たぶん、途中で抜けた守須と僕以外の全員が・・・」
 「やっぱり何かありそうだな、そいつは」
 「僕もそう思います。もっとも守須がここにいたなら、もう少し慎重に構えて、それは話が逆なのかもしれないって言うんでしょうけど」
 「話が逆?」
 「つまりですね、あの時たまたま三次会にいたメンバーが、たまたま今島へ行っているというわけじゃない。もともと集まることの多いメンバーだからこそ、揃って三次会へも行くし島へも行くんだ。だから、手紙の件と連中の角島行きに特別な意味を見出すことは、一概にできないんじゃないか、ってふうに」
 「はあん、微妙な論理だね」
 「慎重派なんですよ、あいつは。根はとてもひたむきで一途な男なんです。だからその分、よけいに慎重であろうとする、みたいな」
 「それにしちゃあ、昨夜はなかなか積極的は探偵ぶりだったな」
 「そうでしたね。実は内心、ちょっと驚いてもいたんです。そもそも切れる男ではあるんですけど」
 (とりあえずはアームチェア・ディテクティブを、か)

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 今日の十角館の殺人はどうかな?


 夕食が終わったばかりの十角館のホールは、すでに弱々しいランプの光だけが揺れる薄闇の中にあった。
 「何だが気持ち悪いと思わない?」
 食後のコーヒーを配りながら、アガサが言い出した。
 「このホールの壁よ。目が変になっちゃう」
 ランプの明かり一つで浮かび上がった10枚の白い壁。それぞれの壁面は、互いにちょうど144度の角度で接しているはずなのに、光の加減で曲面に見えたり鋭角に見えたりする。中央テーブルは整った十角形の輪郭を頑として崩さないから、よけいにホールの外周が奇妙に歪んで見えるのである。
 「本当だ。くらくらしてくるね」
 ヴァンが充血した目を押さえた。
 「早めに寝ろよ、ヴァン。顔色がまだ良くないぞ」とポウがたしなめる。
 アガサがヴァンの額に手を伸ばした。
 「熱あるじゃない。駄目よ、ヴァン。もう寝ちゃいなさい」
 「まだいいよ。7時じゃないか」
 「良くないわ。無人島なんだから、ここ。ちゃんとしたお医者さんもいないんだし、もしもこじらせたら大変でしょ」
 「分かったよ」
 母親に叱れた子供のようにヴァンはしおしおと立ち上がって、自分の部屋のドアに向かった。その時-
 「早々に引き揚げて、暗い部屋の中でいったい何をしていることやら」
 ヴァンはノブに伸ばしかけた手をぴくりと止め、カーを振り返った。
 「僕は寝てるだけだよ、カー」
 「今朝の殺人予告はお前の仕業だと思ってるのさ、俺は」
 「ヴァン、相手にしないで早く行けよ」とエラリイが言った。
 「こう状況ではさ、まずヴァンを疑ってかかるのが常道だとは思わないか。
 考えてもみなよ。こんなふうに複数の人間が一つのところに集まって、そこでたとえば連続殺人なんてものが発生したとしようか。そういう場合はたいてい、その集まりの招待客が主催者が犯人、さもなくば一枚噛んでるもんだろう。
 どうなんだ、招待客ヴァン」
 「冗談はよしてくれ。僕は別にみんなを招待したわけじゃない。伯父がここを手に入れたよって、声をかけただけなんだ。旅行の主催者は、次期編集長のルルウだし」
 「その通りだ。ルルウから相談を受けて、それならぜひこのメンバーで行こうじゃないかと、積極的に話を進めたのはこの僕でね」とエラリイが語気が強めた。
 「ヴァンを疑うのなら、同じ理由で僕とルルウも疑う必要がある。でなきゃ、論理的とは言えないな」
 「俺はな、人が殺されちまってから、あたふたと論理を組み立てるような名探偵どもは嫌いなんだ」
 「招待者が犯人なんてパターンは、しかしあまりにもありきたりだねえ。僕だったらまあ、招待を受けた時に、その機会をうまく利用するように立ち回るが」
 「なんて会話だ!まったく」とポウが怒鳴りつけた。
 「名探偵だの名犯人だの、お前ら、現実と小説の区別もつかんのか。
 まず、今みたいな論争はまったく不毛だってことだ。俺たちがこの顔ぶれで集まるのは、何も今回に限った話ではあるまい。むろん、カーの言う通りヴァンが犯人で、美味しい餌を投げて俺たちに喰いつかせたのかもしれん。エラリイかルルウが犯人で、率先して旅行の計画を立てたのかもしれん。あるいはカー、お前が犯人で、何かいい機会を待っていたところへ今度の企画が持ち上がったのかもしれん。可能性を言い合うだけなら、いくらでもできる。
 お前らはあれを、頭から殺人の予告だと決めてかかっているが、そもそもそれがナンセンスなんじゃないかな」
 例えば、とポウは、昼間にヴァンに語った一つの解釈を皆に示した。
 「それですよ、ポウ先輩」とルルウは手をたたいて喜んだ。
 エラリイは、「もしこれで本当に塩を入れてきたら、僕は犯人のセンスに脱帽するよ」と言った。
 「楽天的で結構なご意見だな」とカーはふくれっ面で席を立ち、そのまま乱暴な足取りで部屋に引っ込んでしまった。
 それを見送ったあと、掠れ声で「おやすみ」と言いながら、ヴァンも部屋に消えた。
 「犯人が誰なのか、何となく楽しみになってきたじゃない」とアガサがオルツィに微笑みかけると、「そうね」とオルツィは目を伏せたまま、小声で相槌を打った。
 「誰が『第一の被害者』かな。これはちょっと面白いゲームになってきたぞ」と、エラリイがつぶやいた。

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 今日の十角館の殺人はどうかな?


 正午過ぎ、昼食の席上で、今朝の出来事に触れる者は誰もいなかった。
 アガサとオルツィが作ったサンドイッチの昼食を食べ終わると、終えた順に一人、二人と席を離れて行った。
 最初に立ったのはカーで、文庫本を2冊ほどを持って外へ出て行った。
 続いてポウとヴァンが立ち上がり、連れ立ってポウの部屋に向かう。


 両手を膝の上に付き、けだるそうに顔を伏せているヴァンの様子に気づいてポウが声を掛ける。
 「まだ具合が悪いのか」
 「うん、ちょっとね」
 「そこのケースに体温計が入っている。熱を測ってみろよ」
 「ありがとう」
 体温計を脇の下に挟むと、ヴァンはベッドに横になった。
 「ねえ、どう思う。今朝のことだよ」
 「俺はただの悪戯だろうと思うが」
 「でも、それならどうして誰も名乗り出なかったんだろう」
 「まだ続きがあるのかもしれん。例えばだ、今夜にも誰かのコーヒーに塩が入れられるのさ。そいつが『第一の被害者』だ」
 「ははあ」
 「その調子で『殺人犯人』は嬉々として犯行を重ねていく。ちょっと大掛かりなマーダーゲーム(殺人遊び)ってわけさ」
 「確かに、小説じゃないものね。そう簡単に殺人なんて起こるはずがない。うん、きっとそうだよ。それじゃあポウ、そのゲームの犯人役は誰なんだろう」
 「さあて、こんなお遊びを思いつきそうな奴と言えばまずはエラリイだろうな。だが、あいつはどうやら『探偵』役に回ったみたいだから。
 いや、もしかしたらやはり、エラリイなのかもしれんな。探偵=犯人ってパターンだ」
 「そういわれてみると、今朝、場の主導権を握る手際なんか、ずいぶん鮮やかだったものね」
 「うむ。体温計は?ヴァン」
 ヴァンは、セーターの袖口から体温計を引っ張り出した。目の前にかざしてそれを見てから、浮かない顔でポウに差し出す。
 「やっぱり熱があるな。唇も荒れてる。頭痛は?」
 「少し」
 「今日は大人しくしてろよ」
 「言う通りにするよ、ドクター」


 ホールでは、昼食の片づけを済ませたアガサとオルツィが、ティーバッグの紅茶を淹れて一息ついていた。
 「ね、オルツィ。あのプレート、どういう意味なのかな」とアガサは唐突に話題を振ると、オルティは首を振って答えた。
 「よくわからない。だって、みんな知らないっていうもの、何も隠すことないのに」
 「あんがいエラリイだったりしてね。ちょっとするとルルウの坊やかな」
 「ルルウ?」
 「あの子の性格なら考えられるでしょう。いつもミステリのことしか頭にないじゃない」
 「わたし、怖い」
 「お茶を飲んだら、外の空気を吸いにいきましょう。ね?」


 入江の桟橋に腰掛け、エラリイは海を見ていると、傍らにいたルルウが話しかけてきた。
 「まさかエラリイさんが犯人なんじゃないでしょうね」
 「よせよ」
 「けど『探偵』『殺人犯人』の札まであるなんて、何となくエラリイさんらしいじゃないですか」
 「知るもんか」
 「そんな、ぞんざいにあしらわないでくださいよ。ちょっと言ってみただけなんですから。しょせん、あれはただの悪戯でしょう。そうは思わないんですか」
 「思わないね」
 「どうして悪戯じゃないんです」
 「誰も名乗り出ない。それに、手が込み過ぎていやしないか。画用紙か何かにサインペンで書いてあったというのならともかくね、わざわざプラスチック板を同じ大きさに切って、ゴチック体の型紙を作って、赤いスプレーを使って。僕だったら、単にみんなを驚かすためだけの悪戯で、そこまで手間をかけたりはしないな」
 「それじゃあ、ホントに殺人なんてものが起こるっていうんですか」
 「可能性はあると思う」
 「あのプレートが殺人の予告なんだとしたら、『被害者』は5人です。あのプレートが、例のインディアン人形と同じ役割ってことでしょう?これでもしも『犯人』が『探偵』まで殺して自殺でもしちゃったら、まるっきる『そして誰もいなくなった』じゃないですか」
 しばらくの間、二人は黙りこくっていたが、やがてエラリイがゆっくりと腰を上げた。
 「僕は戻るよ。ルルウ、ここは寒い」

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 今日の十角館の殺人はどうかな?


 第一の被害者
 第二の被害者
 第三の被害者
 第四の被害者
 探偵
 殺人犯人


 幅5センチ、長さ15センチほどの乳白色のプラスチック板が7枚、各々に赤い文字が記されている。
 着替えを済ませているのは女性2人だけで、他の5人の男は皆バジャマに何かを引っかけた格好だった。
 「うまい冗談だな。誰の仕業だい」とエラリイが一同に問いかけた。
 「当のエラリィさんじゃないんですか」
 「僕じゃないね、ルルウ。カーかアガサだろう」
 「俺は知らんぜ」
 「あたしもよ。ヴァンじゃないわよね」
 「知らないよ」とヴァンは首を振った。
 「アガサが見つけたの?」
 「違うわ。最初に見つけたのはオルツィよ。まさかオルツィじゃないでしょ」
 「知りません」
 一同の視線がポウに集まった。
 「言っとくが俺も知らんぞ」
 気まずい沈黙の中で、7人は互いに顔を見合わせた。
 やがてエラリイが真顔で口を切った。
 「本当に名乗り出る者はいないのかい」
 6人はいずれも、自分じゃないと否定した。
 エラリイは横髪を掻き上げ、「犯人と呼んでもいいね?そいつが僕らの中にいるのは間違いない。名乗り出る者がいないということは、邪な考えを持つ人間が一人、もしくは複数名、この中に潜んでいるってことだな」と言った。
 「邪な考えっていうのは?」とアガサが聞くと、
 「わかるもんか。何か良からぬことを企んでいるって意味さ」とエラリイが答える。
 カーが皮肉たっぷりに唇をゆがめ、「はっきり言やあいいだろうが。こいつはつまり殺人の予告だと」と言うと、エラリイは大声で
 「先走るな、カー」と言って、カーを睨みつける。
 そして、エラリイは、カードを扱うような手つきでプレートを揃えて、「とにかくこれはしまっておこう」と言って、食器棚の空いた引き出しを探し出すと、その中にプレートを放り込んだ。
 「身づくろいしてこよう」と言ってエラリイが自分の部屋に消えると、男たち4人は各自の部屋へ、アガサとオルツィはアガサの部屋へと引き上げた。
 3月27日木曜日。こうして彼らの2日目は始まったのである。

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 今日の十角館の殺人はどうかな?


 午前2時に部屋に引き上げたオルツィはすぐにベッドにはいったものの、うまく眠れないまま、光のない空間に目を凝らしていた。
 中村千織は、オルツィにとってただ一人の友人だった。おなじ学部で、同じ年齢で、最初に大学の教室で出会った時から、何かしら自分に近しいものを感じていた。二人とも気が合い、互いの部屋を訪れたことも何度かあった。
 わたしのお父さんは変わった人で、角島という島に離れて住んでいるの、といつだったか千織は話していた。
 その千織が死んだ。そして、彼女が生まれ、彼女の両親が死んだこの島へ、自分たちはやって来た。
 冒涜ではない、追悼だ。そう自分に言い聞かせていた。


 目覚めは中途半端に訪れた。
 枕元に外しておいた腕時計を見た。8時。
 オルツィは身支度をして、洗面具を用意して、部屋を出た。
 まだほかに誰も起きている気配はない。
 きれいに片付けられた中央のテーブルの上に何か見覚えのないものがあることにオルツィは気づいた。
 そして、そこに並べられているものを認めるや、息をのんでその場に立ち尽くした。

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 今日の十角館の殺人はどうかな?


 お前たちが殺した千織は、私の娘だった。


 守須恭一は低いガラステーブルからその手紙を取り上げると、何度目かの吐息を漏らした。
 昨年の1月、ミステリ研究会の新年コンパの三次会。あの時守須は、同級の江南とともに途中で場を辞した。そのあとの、あれは出来事だった。
 封筒の裏に記された差出人の名は、中村青司。半年前、角島で殺害されたという男だ。守須にしてみれば、会ったことも顔を見たこともない人物だった。
 O市駅前の目抜き通りを抜けた、港に近い一角。巽ハイツという独身向けワンルームマンションの5階の一室である。
 守須はテーブルのセブンスターに手を伸ばした。
 (角島の連中は今頃何をしているだろう)
 壁際に置いたイーゼルに、描きかけの油絵が立ててある。色あせた木々に囲まれて、ひっそりと時を見つめる幾体もの摩崖仏たち。国東半島の、ほとんど人も訪れないような山の中で見つけた風景だった。まだ木炭のデッサンの上に薄く彩色した程度の状態である。
 そこへ電話のベルが鳴りだした。もう午前0時が近い。
 「やあ守須か」
 「ああ、ドイル」
 「その名前はよしてくれって言ってるだろう。昼頃には一度電話したんだけどな」
 「絵を描きに、バイクで国東まで行ってたんだよ」
 「そっか、お前のところにおかしな手紙が来てないか」
 「中村青司からのだろう?そのことで30分ばかり前に電話したんだよ」
 「やっぱり来てるのか」
 「今、どこにいるの。良かったらうちに来ないかい」
 「そのつもりで電話したのさ。近くまで来てるんだ。手紙の件で話したいことがあって、知恵を貸してほしいんだ」
 「貸すほどの知恵もないけど」
 「3人寄れば何とかってね。あ、つまり連れが一人いるんだ。一緒に行ってもいいだろう」
 「構わないよ。じゃ、待ってるから」


 「なんのつもりだか分からないけど、趣味の悪い悪戯だなと思って」
 「『お前たち』って書いてあるよね。だから、僕のところだけじゃないかもしれないとは考えていたんだ」
 「そっちのほうはどうも、コピーみたいだな、俺んちに来たやつがオリジナルってわけか」
 「多分これとまったく同じものが東の家にも届いている。電話して確かめてみた。それから中村紅次郎氏の許にも文面は少し違うが、同じ中村青司名義の手紙が来ていたんだ」
 「中村紅次郎というと中村青司の弟の?」
 「ああ、『千織は殺されたのだ』っていう文面だった、今日はね、彼を訪ねて別府まで行ってきたんだ。島田さんとはそこで知り合ったんだよ」
 「順を追って話してくれよ」と守須が言ったので、江南は今日一日の出来事を口早に語った。
 「相変わらず、好奇心に足が生えたみたいな奴だなあ」
 「いったい誰が、何のつもりでこんなものをばらまいたのか、どう思う」
 「告発、脅迫、そして角島事件に対する注意の喚起か。うん、なかなかいい線だと思うよ。
 あの島田さん、一つお聞きしたいんですが、去年の角島の事件が起きた時、中村紅次郎氏はどうしておられたんでしょう?」
 「それはアリバイといういう意味で?」
 「はん、いきなり鋭いアプローチをしてくるなあ。青司と和枝夫人を殺して一番利益を得る者は誰か。そりゃあ紅さんに決まっている」
 「そうです、失礼かもしれませんが、やはりまず疑われるべきなのは紅次郎氏じゃないかと」
 「しかし、守須君、その辺も警察も馬鹿じゃない。紅さんのアリバイももちろん洗われたよ。で。残念ながら彼には完ぺきな不在証明があった。
 9月19日の夜から翌朝にかけて、紅さんはずっと、この僕と一緒にいたんだな。珍しく電話が掛かってきてね、飲みにいかないかって。別府で夜中まで飲んで、そのあと僕は紅さんの家に泊ったんだ。朝になって事件の報せを受けた時も一緒にいた」
 「完璧ですね、たしかに」
 「もっと意見が聞きたいな、守須君」
 「そうですね。目新しい考えはこれといってはないんですけど、ただ当時新聞で事件の記事を読んだ時から、ずっと思っていることがあるんです」
 「何かな」
 「僕にはね、現場からなくなった和枝夫人の左手首、あれが事件の最大のポイントであるような気がするんですよ。もしもその行方が判明すれば、それですべてが見えてくるような」
 「ふむ、手首の行方ねえ」
 江南が「とろこで守須、研究会の連中が角島に渡ったのは知ってるか」と問うた。
 「うん。僕も誘われたんだけどね、やめにした。あんまり悪趣味だと思って」
 「連中、いつ帰ってくるんだ」
 「今日から1週間っている話だよ」
 「1週間もテントでか」
 「いや、つてができたんで、例の十角館に泊っているんだ」
 「そういやあ紅次郎氏は、あの屋敷を手放したって言ってたな。どうも胡散臭い感じがしてならないな。死者からの手紙が来て、それと入れ違いに死者の島へ向かう」
 「嫌な偶然ではあるね。気になるのならまず、あの三次会に参加した他のメンバーの家を全部当たってみることだろうね。東以外のところにもこの手紙が届いているかどうか、確認しておく必要があるだろう」
 「それはそうだな、春休みでどうせ暇にしてるしなあ。探偵ごっとに打ち興じてみるのも悪くない」
 「江南らしいね。それなら、ついでにどうだろう、角島事件のほうも、もうちょっと突っ込んで調べてみたら」
 「調べるって、具体的にどうやって」
 「例えば、姿を消した吉川っている庭師の家を訪ねてみるとか」
 「しかし・・・」
 「いや、コナン君」と島田が口を挟んだ。
 「そいつはなかなか面白いぞ。吉川誠一は安心院に住んでいたって言ったろう。そこには彼の細君がまだいるはずで、その細君っていうのは昔、角島の中村家に勤めていたらしいんだ。つまり、中村家の内部事情を知る唯一の生存者ってわけさ。」
 「住所はわかるんですか」
 「そんなもの、調べりゃわかるさ。コナン君は明日、午前中に手紙の確認をして回る。そのあと、午後から僕の車で安心院へ行く、どうだい」
 「OKです。守須は?お前も一緒に来たら」
 「行ってみたい気もするけど、あいにく今忙しいんだ。絵を描きに行っているって言っただろう」
 「国東の摩崖仏か、そういえばお前、好きだったっけな。何かコンクールにでも出そうと?」
 「いや、何となく思い立ってね。花が咲く前のその風景をどうしても描いてみたくなって。だから、このところ毎日あっちへ通い詰めなんだよ。
 とりあえず僕は、アームチェア・ディテクティブ(安楽椅子探偵)を気取らせてもらうよ」

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 今日の十角館の殺人はどうかな?


 窓際の1席に向かい合って座る。
 午後4時をまわっていた。朝から何も食べてないことを思い出して、江南はコーヒーと一緒にピザトーストを注文した。
 「さてコナン君、話の続きを聞かせてもらおうか」
 自分の頼んだアールグレイが来ると、それをポットからカップにゆっくりと注ぎながら、島田はおもむろに切り出した。
 「さっきも言ったように、単なる悪戯じゃないと思うんです。誰が何の目的でこんな手紙を出したのか、まるで見当がつかないっていうのが正直なところですね。ただ若干の分析が、まだできないこともないでしょう」
 「聞きたいな、それは」
 「つまりですね、たとえば僕のところに来た手紙の文面に、この送り主がどんな意味を込められているのかを想像してみると、3つほどのニュアンスが読み取れると思うんです。
 第一はこの文章がいちばん強調している『千織は殺されたのだ』という告発の意味合いですね。第二は第一から派生して、だから俺はお前たちを憎んでるぞ、お前たちに復讐してやる、というふうな脅迫の意味合い。そして、こういった告発文・脅迫分の主として最もふさわしい中村青司という名前が利用されることになった」
 「なるほど、三つ目は?」
 「第三は、前二つとは違った角度から見た場合で、この手紙に込められた裏の意味、みたいなものです」
 「裏の意味?」
 「なぜこの送り主は、今頃になって中村青司なんていう死者の名を持ち出してきたのか。脅迫文に凄みをつけようと思ったとしても、今どきそれを真に受ける者はいないでしょう。
 そこで思うに、去年の角島の事件にもう一度注目しろっている、僕たちに対する遠回しなメッセージなんじゃないかな、と」
 「いや、面白いと思うな。角島事件再考、再考の余地は大いにありそうだからね。コナン君、君じゃどのくらい知っているのかな」
 「新聞で読んだだけですから、あんまり詳しくは」
 「なら僕が知っているところを話しておいたほうがいいね」
 「ええ、ぜひ」
 「時は昨年9月。所は角島の通称青屋敷。殺されたのは中村青司と妻の和枝、使用人夫婦の計4人。それと行方不明の庭師が1人いる。犯行後の放火によって屋敷は全焼、犯人はまだ捕まっていない」
 「確か、行方不明の庭師が犯人と目されているんでしたね」
 「そう、けれどの決定的な証拠があるわけじゃない。姿を消したら怪しいという、結局はその程度の話だと僕は思う。
 さて、事件の詳細だが、まず屋敷の主人である中村青司について、少し説明しておく必要があるだろうな。当時、青司は、紅さんよりも3つ年上だから、46歳だね。とうに引退していたが、彼はかつて知る人ぞ知る、一種天才肌の建築家だった」


 中村青司は大分県宇佐市の資産家、中村家の長男として生まれた。高校卒業後、大学に行くために単身上京。T大学の建築学科に在学中、早くも全国レベルのコンペで賞をさらい、関係者の注目を集めたという。卒業後は、担当教授から大学院への進学を強く勧められたが、機を同じくして父親が急逝、郷里に帰ることを余儀なくされた。
 父親が遺した中村家の財産は莫大な額に上った。弟の紅次郎とともにそれを相続した青司は、まもなく角島に自らの設計による屋敷を建て、早々と半ば隠居を決め込んでしまう。


 「夫人の和枝は、旧姓を花房といって、宇佐に住んでいたころの幼馴染だったらしい。早くから両家の間で約束が取り交わされていた、許嫁同士だったとも聞くね。青司が角島へ渡るとほぼ同時に、二人は結婚した」
 「その後、建築の仕事はしなかったんですか」
 「するにはしていたが、半分道楽みたいなものだった、と紅さんは言ってたな。気に入った仕事だけ気の向いたときに引き受けて、自分好みの意匠を徹底的に凝らしてね、風変わりな家ばかり建てていた。そいつがまた、あちこちの好事家の間でめっぽう評判になったりして、わざわざ遠くから島を訪れる者も多くいたっていう」
 「ふうん、変わった人物だったんですね」
 「紅さんも、道楽で仏教学なんかやっててけっこう変わった男だが、その彼が『兄は変人なんだ』ときっぱり言うんだから間違いない。兄弟の仲はあまり良くはなかったみたいだけれども。
 さて、角島の屋敷にはほかに、北村という使用人夫妻が住み込んでいた。夫は屋敷の雑用と、本土との連絡に使うモーターボートの運転、女房のほうは家事全般を任されていた。もう一人は問題の庭師だね。この男は吉川誠一といって、普段は安心院のあたりに住んでいた。月に一度数日間泊りがけで仕事にくることになっていて、ちょうど火災の3日前から島に来ていたらしい。
 次に事件の状況だが、発見された死体は全部で4体。火事のせいでどれも黒焦げになっていたから、鑑識もかなり手こずったっていうね。
 北村夫妻は寝室で、頭を叩き割られて死亡。凶器と目される斧が同室で発見されている。また両名とも縄で縛りあげられていた形跡があった。死亡推定時刻はどちらも9月19日、火災前日の午後以降。
 中村和江は寝室のベッド下で、首を絞められて死亡。何か紐状の凶器で絞殺されてものらしい
。死体は左の手首から先が欠損していたが、これも死亡時に切断されたものと考えられる。切り取られた手首の行方は今もって不明。死亡推定時刻は9月17日から18日の間。
 中村青司は、和枝と同じ部屋で、全身に灯油を浴びせられ、焼死していた。死体からは多量の睡眠薬が検出されたが、これは他の3人の死体についても同様だった。死亡推定時刻は9月20日未明の火災時。
 火災の火元は屋敷の厨房と思われる。犯人はあらかじめ屋敷中に灯油をまいたうえで、ここに火を放ったのである。
 警察の見解は知っての通り、現時点ではほぼ、姿を消した庭師の吉川誠一が犯人だといういうところに落ち着いている。不明瞭な点はいくつもあるんだけどね。
 たとえばそう、和枝夫人の左手首の問題。吉川は何のために夫人の手を切り取り、それをどこにやってしまったのか。それから、逃走経路の問題もある。島に1隻しかないモーターボートは、入江に残されたままだったんだ。4人もの人間を殺害したあと、9月も下旬の海を泳いで本土へ渡ったなんて、ちょっと考えにくいだろう。
 動機。これには二つの説がある。
 一つは青司の財産目当ての、いわば強盗節。もう一つは吉川が和枝夫人に横恋慕していた、あるいは夫人と密通していた、という説。おそらくその両方だろう、というのが大方の意見だね。
 吉川はまず、屋敷の者全員に睡眠薬を飲ませ、眠らせてしまったから犯行に取り掛かった。北村夫妻を縛り上げ、青司も同様にしてどこかの部屋に監禁する。そして和枝夫人を寝室に運び、己の欲望を満たした。最初に殺されたのはこの和枝夫人で、他の3人よりもまる1日か2日、死亡時刻が早い。殺されてしまってから死体を犯した形跡も、決定的にではないが見られたというね。次に殺されてのは北村夫妻。それまでずっと薬で眠らされ続けていたと思われる。で、最後に青司だ。眠らせた状態で灯油をかけ、そのあと厨房に行って火を点けた」
 「ねえ島田さん。犯人はなぜ青司をそんなにあとまで生かしておいたんでしょうか。北村夫妻についてもそうです、どうせなら、早くに始末してしまったほうが安全でしょう」
 「建築家としての中村青司の特徴が関係してくるんだよ」
 「建築家としての?」
 「青屋敷にしても、その別館である十角館にしても、青司が設計したこれらの建物
には、かなり偏執狂っぽい、あるいは子供じみた、あるいは遊び心に満ちたともいえる、そんな彼の趣味が存分に反映されていたわけなんだが、そのうちのひとつに、いわゆるからくり趣味のようなものがあったというんだ」
 「からくり?」
 「どの程度のものか知らないけれども、特に燃えた青屋敷のほうには隠し部屋とか隠し戸棚、隠し金庫の類が随所に造られていたらしいんだな。そして、そういった仕掛けのありかを知っていたのが当の青司だけだったとしたら」
 「そうか、金品を盗むには、彼からそれを聞き出さなきゃならない」
 「その通り。だから、青司を早くに殺してしまうわけにはいかなかった。
 以上が、事件とその捜査状況の要点だね。庭師吉川の行方は目下まだ捜索中。見つかりそうな気配は今もってない。
 どうかな、コナン君。何か質問は?」
 (残された状況からの推測-もっと悪い言い方をするなら辻褄合わせ-にすぎたいのではないだろうか。
 この事件の最大の難点は、とにかく青屋敷が全焼してしまったところにある。そのため、現場から得られる情報が本来よりも著しく少ないのだ。加えて、事件当時あるいは事件前の島の模様を語ってくれる生存者の不在・・・)
 「難しい顔をしているね、コナン君。じゃあ、僕の方から一つ尋ねるとしようか。
 千織っていう娘についてさ。紅さんに姪がいるってことは知っていたし、学校へ行く都合で和枝夫人の実家に預けられていたことも聞いている。その娘が去年、不慮の事故で死んでしまったという話も耳に入ってはいたんだが、詳しいところはよく知らないんだよ。中村千織というのはどんな娘だったんだろう」
 「おとなしい子でしたね。あんまり目立つほうじゃなくて、どこか寂し気な風情があって。僕はほとんど話をしたこと、ないんです。けど、気立てのいい子だったみたいで、例えばコンパなんかの時でも、よく気がついて雑用ばかりしてました」
 「彼女が死んだのはどんな事情で?」
 「去年の1月、ミステリ研の新年会で、急性アルコール中毒が原因となって。普段は彼女、コンパがあっても一次会だけで帰っていたんですけど、あの日は三次会まで、僕たちが無理に誘って。悪いことをしました。もともと体が弱かったらしいんですね。なのに、みんなが調子に乗って、無茶な飲み方をさせたらしくて」
 「させたらしい?」
 「僕もあの日、三次会まで行くには行ったんですけど、ちょっと用があったもので、もう一人の守須っていう友達と一緒に早めに切り上げたんです。その後の事故でした。いや、事故じゃなくて僕たちが殺したのかもしれませんね」
 「今夜は暇から、コナン君。どうだいこれから夕飯がてら一杯、ひっかけにいかないかい」
 「でも」
 「僕が奢るよ。その代わり、ミステリの話し相手になってほしいんだなあ」
 「ええ、喜んで」
 「よし決まった」
 「ところで、島田さん。まだ聞いていなかったと思うんですけど、紅次郎さんとはどういうお知り合いなんですか」
 「紅さんは大学の先輩なんだよ」
 「じゃあ、島田さんも仏教学を」
 「実を言うと、僕の家はO市の外れて寺をやっててね。3人兄弟の末っ子でね、親父は還暦を過ぎてもまだまだ意気盛んだし、今のところはミステリを読んで、中で死人が出る度にお経をあげるくらいしかすることがない」

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 今日の十角館の殺人はどうかな?


 今日中に済ませたい仕事があるから、と言われ、江南は紅次郎にいとまを告げた。
 紅次郎は、近くの高校で社会科の教師を務める傍ら、仏教学の研究をしているのだという。
 島田は揺り椅子からぴょこんと立ち上がって、跳ねるような足取りで江南の側までやってくると「カワミナミ君、どんな字書くの」と問うた。
 「揚子江の江に、東西南北の南です」
 「いい名前だねえ。紅さん、じゃあ僕もそろそろ失礼するとしよう。一緒に出ようじゃないか、江南君」


 紅次郎の家を出て、江南と島田は並んで歩く。
 「コナン君、何で君はミステリの研究会をやめたんだろうか。思うにそれは、そのクラブの気風が肌に合わなかったからだ、違うかい」
 「正解ですよ」
 「したがって、君は別に、ミステリそのものに興味がなくなったわけじゃないということだ」
 「ミステリは今も好きですよ」
 「僕も、仏教学よりミステリが好きだ。さてコナン君、お茶でも飲みに行こうじゃないか」
 「はあ」
 「しかしコナン君、君も変わった男だねえ。ただの悪戯かもしれない1通の手紙のために、こんな遠方まで一人で出向いてくるんだから。まあもっとも、僕が君と同じ立場にあったとしても、きっと同じ行動を取っただろうな。
 どう?君は他意のない悪戯だとと思う?」
 「幽霊が手紙を書いただなんて思いませんよ。誰かが死者の名を騙って書いたんでしょう。ただの悪戯にしては念が入りすぎている」
 しばらく歩いていると、島田が指さした。
 「あの店に入ろう」

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 今日の十角館の殺人はどうかな?


 K大ミステリ研究会の面々が角島に向かって船出したS町から、、バスで半時間、加えて列車で40分ほどの場所にO市がある。直線距離にして40キロ足らずといったところだが、さらに4つばかり先の亀川という駅で下車すると、江南は駅前から山手へ向かう道を速足で歩いた。
 千織の祖父宅に電話を掛け、亡くなった彼女の大学の友人だと告げると、恐らく住み込みの家政婦から誰かだろう、気さくな中年女性が質問に答えてくれた。
 それとなく千織の父親が角島の中村青司と同一人物であることを確認した後、江南は青司の実弟、中村紅次郎の住所を聞き出すのに成功した。
 紅次郎は別府の鉄輪に住んでいるのだという。地元の高校で教鞭を執っており、今は春休みだからたいてい家にいるはずだともいう。
 別府は以前、江南の実家があった街で、土地勘があった。
 電話で聞いた番地を頼りに歩き回るうち、やがて大した苦労もなく、目当ての家は見つかった。
 落ち着いた趣の平屋だった。
 江南は格子戸の入った門をくぐり、石畳を玄関まで進んだ。深呼吸を一つして、呼び鈴のボタンを押す。
 「どちらさん?」
 現れたのは、この日本建築にあまりそぐわないいでたちの男だった。白い開襟シャツに茶色のカーディガン、チャコールグレイのフラノのズボン。無造作に撫で上げた髪には、わずかに白いものが混じっている。
 「中村紅次郎さんですか」
 「そうですが」
 「あの、僕は、亡くなった中村千織さんと大学で同じ研究会にいた江南というものなんですが、突然お尋ねして申し訳ありません」
 「私にどんな御用です」
 「実は今日、妙な手紙が来ました」
 江南は例の手紙を封筒ごと差し出した。
 紅次郎は手紙を受け取ると、整然と並んだ宛名書の文字に視線を落とした。
 「とにかくまあ、お上がんなさい。友人が一人来ているけれども、気を遣わなくていいから」


 江南は奥の座敷に通された。
 「島田、お客さんだよ」
 庭に面した縁側に藤製の揺り椅子があり、そこに紅次郎の言った友人が座っていた。
 「K大の推理小説のクラブの江南君。こっちは私の友人で、島田潔」
 島田は勢いよく立ち上がったが、そのはずみで大きく揺れた椅子の脚に自分の足をぶつけてしまい、低くうめいてまた椅子に落ちた。
 痩せて背の高い、やたらと細長い男で、江南はとっさにカマキリを連想した。
 「あのう、研究会のほうは去年退会したんですが」
 「だ、そうだ」
 「で、その君が何だって紅さんのところへ」
 「これだよ」と紅次郎が言って、江南が持ってきた手紙を島田に渡した。
 紅次郎は、「実はね、江南君。同じような手紙が私にも来ているんだよ」と言って、奥の書斎机に歩み寄り、デスクマットの上から1通の封書を取り出し、江南に手渡した。
 江南の許に届いたのと同じ封筒、同じ消印、同じワープロの文字だった。そして差出人の名はやはり中村青司。
 手紙は『千織は殺されたのだ』と書かれており、江南宛ての手紙とは文面は異なっていた。
 「私も驚いているんだよ。まあ、たちの悪い悪戯だろうとは思うが。さっきも島田と話していたんだ。世の中には暇な人間がいるもんだとね。そこへ君がやってきた」
 「僕だけじゃなくって、どうやら他の会員のところにも同じものが行ってるみたいなんです」
 「ほう」
 「まさか、お兄さんが生きてらっしゃるというようなことは?」
 「ありえないね。知っての通り、兄は去年の秋に死んだ。私は死体の確認もさせられている。ひどい有様だったがね。悪いけれども江南君、あの事件のことはもうあまり思い出したくないな」
 「すみません。手紙の内容についてはどう思われますか」
 「千織の不幸については私も聞いているが、あれは事故だったと思っているよ。千織は私にとっても可愛い姪だったからね、殺されたこのだと、そういう気持ちもわかるが、だからと言って君達を恨んでみても仕方ない。むしろ、悪戯で兄の名を騙って、こんな文書をばらまく行為の方が許せないな」
 「ところで、うちの研究会の連中が今、角島に行ってるんです。ご存じでしたか」
 「いいや。あそこの土地と屋敷は私の死後、私が相続したんだがね、先月S町の業者に売ってしまった。かなり買い叩かれたが、もう二度と行く気も起きまいし、その後のことは知らんよ」

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 今日の十角館の殺人はどうかな?


 お前たちが殺した千織は、私の娘だった。


 昨夜友人の下宿で徹夜で麻雀をしていた江南孝明が、午前11時に部屋に戻った時、郵便受けにこの手紙が入っていたのだ。
 何の変哲もない茶封筒で、消印の日付は昨日の3月25日。発送場所はO市内のようだ。手紙の文字はすべてワープロ打ちだった。
 差出人の住所はなかったが、中村青司という名前だけが記されていた。
 江南には「千織」という名前に見覚えがあった。おそらく中村千織のことだろう。そして、その父親が中村青司か。


 江南はK大学の3回生で、去年の春までミステリ研究会に所属していたが、今は辞めてしまっている。
 昨年の1月、当時江南が所属していたミステリ研究会で新年会が催された。
 千織はこの研究会の後輩で、当時1回生だった。
 この新年会の三次会の席上で、千織は死んだのだ。
 江南は用があり途中で店を出たが、そのあとのことだ。千織は急性アルコール中毒から持病の心臓発作が誘発され、救急車で病院に運ばれたが、すでに手遅れの状態だった。
 葬儀には江南も参加した。
 千織はO市内にある母方の祖父の家に住んでおり、葬儀もそこで執り行われた。だが、あの時の喪主の名前は青司ではなかったように思う。そういえば、あの葬儀の場に父親らしき姿は見当たらなかったように思う。
 では、千織の父を名乗る人物がなぜ、身も知らぬ自分のところにこんな手紙をよこしたのだろうか。
 考えて江南は、はっとして、趣味で続けている新聞のスクラップをまとめたファイルを取り出した。
 『角島青屋敷炎上 謎の四重殺人』
 「死者の告発か」


 江南は、ミステリ研究会の仲間だった東一の自宅に電話すると、母親から、今朝からミステリ研究会のメンバーと角島に旅行に出かけている、と聞かされる。
 そして、中村青司からの手紙のことを尋ねると、来ているとのことだった。


 江南は、この電話の前にあの三次会に居合わせたメンバーのところに電話していたが、どこも留守だったのだ。

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 今日の十角館の殺人はどうかな?


 夕刻、エラリイが一人で十角テーブルでトランプをいじっていると、部屋からアガサが出てきた。
 「どうしたの、エラリイ。一人でトランプなんかいじって」
 「最近ね、ちょっと凝ってるのさ。カードと言えばマジックさ」
 「じゃ、何かやってみせてよ」
 「それじゃあ、こっちへ来て、そこへ座って」
 アガサが広いテーブルを挟んだ斜め向かいの椅子に腰を下ろすと、エラリイはカードを揃えてテーブルに置き、もう一組のカードを上着のポケットから取り出した。
 「さて、ここに赤と青、裏の色が違う2組のカードがある。今から、このうちの片方をアガサが、もう片方が僕が使うことになるんだけれども、どっちか好きなほうを選んでくれる?」
 「青にするわ」
 「よし、それじゃあ青のほう、このカードを君が持って」
 エラリイはテーブル越しに青裏のデックを渡した。
 「まず何の仕掛けもないことを検めてから、好きなだけ切り混ぜて。僕はこっちの赤裏のカードをよく混ぜるからね」
 入念のシャッフルしたデックを、エラリイはテーブルに置いた。
 「ここで一度、デックを交換しよう。青いほうをこっちに渡して。赤いほうを君に。次に、その中から好きなカードを1枚、抜いて覚える。僕も、いま君が切ったカードの中から1枚覚えるから」
 「好きなのを1枚ね」
 「そう、覚えたかい。じゃ、それをデックの一番上に戻して。そして僕と同じように1回カットする。うんうん、よし、それを2、3回繰り返す」
 「これでいいかしら」
 「上出来だよ。そしたら、もう一度デックを交換して」
 アガサの手が再び、青裏のデックが渡った。
 「今僕たちは何をしたのかっていうと、ばらばらに切り混ぜた2組のカードから、それぞれ勝手な1枚を抜いて覚え、元に戻してまた混ぜただけだね」
 「ええ、確かに」
 「じゃあ、そっちのデックの中から、さっき君が覚えたカードを探し出してくれないから。そしてテーブルに伏せて置く。僕はこっちのほうから、僕が覚えたカードを探すから」
 まもなくテーブルの上に、青と赤、2枚のカードが抜きだされた。エラリイは一呼吸おいてから、アガサに2枚のカードを裏返すように命じた。
 「本当にぃ」
 アガサが驚きの声を上げた、2枚の表には、どちらにも同じスートとナンバーがあったのだ。
 「ハートの4、か。なかなか気が利いていると思わないか」


 陽が落ちると、十角形のテーブルの中央でアンティークな石油ランプに火が灯された。電気が切れていると聞いて、ヴァンが持ってきておいたものである。ホール以外の各部屋には、太い蝋燭がたくさん用意されていた。
 夕食が済んだころには、時刻はすでに7時をまわっていた。
 「ねえ、エラリイ。さっきの手品のタネ、どうして教えてくれないの」
 「何度言ってもダメだよ。マジックにタネ明しは禁物」
 「アガサ先輩、エラリイさんの手品の相手をさせられたんですか」
 「あら、ルルウは知ってたの?」
 「知ってるも何も、さんざん練習台になってますからね」
 「おいおい、ルルウ」
 「何を見せたんですか」
 「簡単なやつをね」
 「だったらいいでしょ、タネを教えてよ」
 「簡単だからタネ明しをしてもいいってもんじゃないさ。最初に見せたのなんかは特にね。子供でも知っているような初歩的なトリックなんだけど、問題はタネそのものじゃなくって演出、それとミスディレクション」
 エラリイは、カップに手を伸ばし、ブラックのまま一口啜った。
 「あれとほぼ同じとりっくをね、『まじっく』っていう映画の中で、アンソニー・ホプキンス扮するマジシャンが、昔の恋人を相手に見せるくだりがあるんだ。そこでは普通の奇術としてじゃなく、ESPの実験として演じられてたね。お互いの心が通じ合ったいればカードは一致するはずだっていう設定でき、それをきっかけにマジシャンは相手を口説き落とそうとするわけなんだけど」
 「で、エラリイは同じようにしてあたしを口説くつもり、なかったわけ?」
 「残念ながら、女王様を口説くような度胸は、今のところ僕にはないよ」
 エラリイは指をかけたままいたコーヒーカップを持ち上げて、しげしげと眺めながら言った。
 「ぜんぜん話は変わるけど、昼間も言ってた中村青司、つくづく凝り性な男だったんだな。このカップなんか見てると、うすら寒い気もしてくるね」
 洒落たモスグリーンのカップである。厨房の食器棚にたくさん残っていた品の一つだが、注目すべきはその形だった。これもまた、建物と同じ正十角形なのである。
 「特注で作らせたんだろうな。その灰皿も、さっき使った皿もそうだったね。何から何まで十角形だ。どう思う、ポウ」
 「確かにいささか常軌を逸していると思うが、金持ちの遊びというのはたいがいそういったところがあるものだろうし」
 「十角館はみんな好みのいいところだけど、島自体には本当に何もないのね」
 「そうでもない」とポウがアガサに応えて、
 「焼け跡の西側にある崖の下が、手ごろの岩場になっててな、階段も造ってあって海辺まで下りられる。あんがい釣れるかもしれん」
 「そういうえばポウ先輩、道具を持ってきてましたっけ。明日は新鮮な魚が食べらえるますかねえ」とルルウがぺろりと唇を舐めた。
 この時、ポウが隣席で俯いているヴァンの顔を覗き込んだ。
 「気分が悪いのか」
 「ちょっと頭痛がして」
 「顔色が良くない。熱もあるな」
 「悪いけど、先にもう、寝させてもらっていいかな」
 「そのほうがいい」
 「じゃあ」
 ヴァンはゆっくりと椅子から立ち上がった。
 「みんな構わずに騒いでくれていいから。物音は気にならないほうだし」
 おやすみの挨拶を交わして、ヴァンが自分の部屋に引っ込む。ドアが閉められ、カチッ、と小さな金属音が響いた。
 「嫌らしい奴だな。これ見よがしに鍵を掛けるか。自意識過剰な女じゃあるまいし」とそれまで黙りこくって膝をゆすっていたカーが、低く言い捨てた。

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